諫早湾干拓事業の司法判断

   

諫早湾干拓事業は江戸時代から続いた、稲作可能な農地を広げたいという、日本人の本能にしみついたような、農地開発意識があったのだろう。埋め立てて、国土を広げるということに、誰も異論があろうはずがなかった。ここにコンクリート公共事業が目を付ける。特に戦後の食糧不足時代、農地を広げたいということは国の目標にもなり、全国で干拓事業が推進される。長崎県は稲作可能な平地が少なく、水田地帯を作るということには、大きな夢を持てたはずだ。しかし、干拓事業は何十年もかかる事業である。しかもこの事業は実施自体が遅れて、すでにお米が余るということが分かっていながら、1989年に埋め立てが開始されることになった。いったん実施が決められると、公共事業の馬鹿げた側面で、事業成否ではなく、実施そのものが行政の目的になる。地域に仕事を落とすことも、目的化して行く。本来政治に先見性があれば、25年前に事業の中止が計られるべきだった。こうした先見性のない公共事業は数限りなく存在する。

事業目的自体が間違っていたから、農業目的の干拓事業がいつの間にか防災目的となる。しかも、目的であった水田の造成は当然取りやめになり、野菜等の農業に限定されることになる。秋田の八郎潟や、石川県の河北潟の埋め立て事業なども同様の運命をたどった。埋め立ててしまった以上合理的に利用すべきということで、八郎潟の農耕地は12,802ヘクタールで、現在では8,299ヘクタールの水田に成った。当時は夢の農業と言われ、国が全国に入植者を募集した。河北潟の干拓事業では1、100ヘクタールという面積を、1985年に完成して水田に使えないことが決まっている。それよりさらに遅れて、4年経過して諫早湾で干拓事業を始めるというのだから、正気の沙汰に思えない。ある意味公共事業というものが自転車操業であり、次の事業を持って来なければ、市長は失格になるし、地元企業は倒産する。結果として生まれた816ヘクタールの農地が有効利用されるならまだいいが、農業者自体が減少を続ける中で、農地の拡大の意味は小さいと言わざる得ない。

この出発自体が間違っていた事業は、結果も悲惨である。干拓地の貯水池を維持するために水門が閉められたため、真水の流入が減少した諫早湾自体が、衰弱を始める。これは全国に作られる河口堰の抱えた問題と似ている。海自体が力を失ってゆくこととになる。山の豊かさが海を育む。その山と海が切断されれば、徐々に海は多様性を失ってゆく。それでも農地を広げたことが、食糧確保につながり、地域の振興になるならいいのだが、耕作放棄地が全国で広がってゆくなかで、農業分野では有効に使うことは難しくなっている。諫早の海は死にかかっている。農業利用もはかばかしい訳ではない。しかし、やりかかった事業は成し遂げなければならない。そして、2010年12月6日、福岡高等裁判所は佐賀地裁の一審判決を支持し、防排水門開放を国側に命じる判決を下す。国は上告を断念し、開門が決定される。

しかし、今度は開門を前にして、長崎地裁に置いて、堤防排水門の開門差し止めを国に命じる仮処分が決定された。国に開門を命じた3年前の福岡高裁の確定判決と逆の決定が言い渡される。司法判断も漁民と、農民の間で揺れる。国のほうが政権が代わり、顔色を見る裁判官もいるということか。この問題の根本は国に国土と、食糧生産に対する大きな方向性が無いことである。減反を農家に求め、耕作放棄地の対策で頭を痛めているときに、いまさら干拓をすることがおかしいのだ。ダムや防潮堤も同様である。政治はその時々で、一貫しない場あたり的な、判断をする。その原因は大抵の場合、利権の強さに影響されるからである。俺様がこの事業を持ってきてやったというような、大局とは関係のないものによって政策が動かされている。人口減少が決まった中で、国土と農業をどう位置付けるか、大きな枠組みを決めなければだめだ。

 - 稲作