東京オリンピックで起こること
東京で7年後オリンピックが開催されることになった。オリンピック開催に合わせて、日本の方向は地方の衰退と、東京一極集中がますます尖鋭化して行くことになる。その流れに対して、オリンピック開催が都合のよい理由になるだろうということが懸念される。世界との競争力ということばかりを重視すれば、集中型社会になるのは当然の結果である。一次産業中心の社会であれば、集中したくてもできない条件がある。しかし、一次産業は他の産業に比べ効率がわるい。労働生産性からいえば低いものだ。製造業の工場も日本国内より海外という時代である。日本の社会が国際競争力というものを、最も重要な要素としている。一次産業の効率を上げるということより、一次産業から離れてゆくという結果になるのは当然である。特殊な一次産業の成功例はあるだろうが、一般的な産業としては、活力が失われてゆく流れである。若い人が選択しないだろうということだ。
投資的な視角で考えてみれば、東京が買い時である。これから地方はますます売りになるだろう。特に東北は放棄されてゆくのではないだろうか。よほど個性化しない限り地方は生き残ることはできない。集落が消滅して行く地域は、今後7年間さらに増加して行くことだろう。すでに東京をオリンピック特区にして、超法規的に開発を進めようと動き出している。オリンピックを理由に挙げれば、今までなら抵抗があることでも、強引に進めることが可能だろう。海外からのお客さんに、こんなみっともないところは見せられない。日本人の痛いところが理由づけになる。本当の狙いは、東京一極集中である。湾岸エリアにオリンピック関連施設が集中されるのも、そのためであろう。湾岸の埋立地利権というものもある。高額なマンションがさらに売れるようになっていると、本当か嘘かはわからないが、これから報道を含めて、政府の方針に沿って、そのような流れが煽られ、乗せられてゆく。
一方で、復興オリンピックと言いながら、東北は取り残される可能性がさらに強まった。東北では中核都市への一極集中がすでに起こっていた。都市ではない部分は日本中から、徐々に失われてい行くことになる。経済の合理性だけで、動けばそういう結果になるのが当然の結果である。本来政治というものは経済だけで動くことを制御する役割のはずだが、現状では政治こそ経済優先である。世界の経済の中でどのように競争して行くかが、まるで日本人の行うべき競争のようになってきている。オリンピックはそういう機運も高めてゆくことになるだろう。東京と地方の格差がどの分野でも、さらに深刻なものになるだろう。東京の湾岸エリアのマンションに暮らして、地方に別荘を持つ。こうした暮らしが競争を勝ち抜く人たちの暮らしになる。それは少数の特別に能力の高い人たちである。大多数の普通の人は、格差社会の底辺に漂い存在することになる。
本来これは間違った方向であるが、そうなってしまうのだろうと思わざる得ない。そこで地場・旬・自給をどうするかである。地方ではますます農業は放棄され、経済性の乏しい部分はすべて荒れてゆく。自給農業を継続する条件はむしろ整ってゆくとも言える。地方でも都市部以外の地域の、大規模化、機械化できない農地は、山に戻ってゆくことになる。住宅も山間部ではますます放棄されてゆく。その意味では、自給的な暮らしは可能性が強まることでもある。社会の価値観と一定の距離を持ち、自給的な暮らしの連携を模索することだ。世の中の方向を変えるべきなのだが、しばらく、時を待つ以外ないのであろう。価値観を共有できるもので、ゆるやかな連帯をしてゆくことが重要なのだろう。ゆるやかに支え合うということは、とても難しいことであるが、それが出来ないと生き残れない社会になってゆきそうだ。孤立しない、地場・旬・自給。