顔写真の変更

   

水彩人の画集を作る計画が進んでいる。水彩人15周年ということである。5年ごとに作ろうということで、3回目になる。ここに同人の写真を入れるということで、写真を撮った。そこで、ついでにブログの写真も変えた。この白いひげの男が、私である。このブログではあえて顔写真も出している。そういう責任の上で、ブログを書こうと思っているからだ。前に載せていた鶏を抱いた写真はどこかの取材で撮影してくれたものだ。歳をとってだいぶ白くなり、様相も変わって来たので、ついでに更新することにした。写真がありのままかというと、そういうものでもない。会ったこともない人が、この写真から私を想像するとすれば、また違った人間であろう。自画像の方が、その人らしいというようなことは普通だ。しかし、見た目というもので、顔認証というようなこともできるらしいから、ブログの責任という意味では、あまり古い写真というのもおかしいことになる。

人相見という職業がある。昔は点眼鏡を構えた、黒い羽織姿の人相見というものがあった。4角錐型の台形のような行燈に、人相見と運命鑑定と書いたものが机の脇にあった。確かに縁日に出ていた記憶がある。変な顔の絵が後ろに張りめぐらしてあり、顔の上にたぶんほくろの位置による説明がの文字があった。運命鑑定の根拠のようなものも書かれていた。ほくろは生まれたときはなく、運命を予知して出来てくるもの。その運命の鑑定をするということらしい。通りがかかりの人に、そこのお兄さんお兄さん、何やらなやみ事があるようですな。顔に表れていますぞ、一つ、鑑定をいたそうかな。などと呼止めていたのをテレビの時代劇で見たことがある。本当の人相見は、黙って座っていただけの、あまりさえない感じの人だった。自分の運命を鑑定すればいいのにと思ったものだ。

私が人相見に関心があったのは、高校生のころに人を見ると大体のことが分かる時期があったからだ。高校2年生の時だ。クラスの全員の家族構成を当ててみんなをびっくりさせたが、何故見てその位のことが分からないのかと思った。誰だってそういう見える時期はあるのだと思う。犬などはほとんどそういう見るで生きている。こちらの気持ちを読んで行動している。絵を書いていると感じるのだが、見るということには奥行きがあって、写真のように見るというのは、最も浅い見るだ。この浅い見るでとどまっていては、面白くない。表面性の奥にある本質を見るということが重要になる。ブログの顔写真にあるものは、表面的なものと言えばいいのだろう。こんなものから観相術は成立しない。運命鑑定はできない。それでも私の要望というものはわかる。写真を取られると魂を奪われる。と感じた何かは、あまりにリアルな表層に魂がこもると感じたからだろうが。実はそっくりであっても魂は乗り移るものではない。

このむしろ、似ても似つかないような、在り様に、そのものの真実が表わされているのが、絵だ。だから人相見と一緒で、見えない人に対しては、このように見えているのだというような絵の説明は出来ないものだと思う。実は絵の面白さはここにある。人間が見ているのは、表面の映像ではないということだ。表面以外の何が見えるのだと言われても困る。見えている人なら説明抜きでわかる性格のものだ。要するに絵を見てもらう以外にない。ところが、この見えているものが画面に表現できないから、本当に苦労する。何故見えているのに画面にこない。この不思議さに調整んしているようなものだ。

 - 水彩画