絵の廃棄
3日間にわたって、絵を選択して廃棄した。それは大量なもので、軽トラック山積み4台であった。昔の油絵、アクリル画、そして大型の水彩。廃棄には理由があった。絵を描いてきた過去蓄積のようなものを消してしまい、新たにやりたいと考えた。絵を描いていると、どうしても過去の自分の描いた絵を引きづる。始めて絵を描くときのように絵は描きたいものだ。朝起きると、新しい命が生まれたと感じ。夜寝るときに死んでゆくと思う。という精神を読んだことがある。絵を描くということも、描き方というようなものを一切忘れたい。何をやるのか、どうやるのか、手順のようなものを捨て去って描きたい。どうしたらいいのか分からないまま、迷いの絵を描きたい。そういう思いが強まって、今までの絵を捨てようと考えた訳だ。それでもなかなか捨てがたいものがある。延ばしに延ばしてついに捨てた。結局全部は捨てられず、まだ残っている絵もある。水彩画やデッサンは保存しやすいので、まだ大量に残っている。
断捨離という仏教用語のような新語が出てきた。2010年の流行語にあるらしい。本当の意味は良く知らないのだが。捨てない限り進めないというのは、日常誰でもが経験していることではないだろうか。それでも捨てるに捨てられないというのが自分。今の自分というものはすべて過去の自分の結果だ。結果の方が原因の方を捨てろと言ってもできるわけがない。それでも、捨てた方がいいらしいということは、おぼろげにわかる。解脱というようなことでもある。特に絵というような技術的なものは、長年の技術を捨てなければ、新たな世界には行けない。絵が面白いのは、技術の意味がほとんどないところだ。ただ丸を描いて自分を表現する人もいる。自分というものが何者であるかを、自覚できるかにかかっている。自分というものが把握できないから、技巧的な丸を描こうとする。ここが断捨離ではないだろうか。誰でも丸は描ける。この丸がササムライズルであることがあり得るのかどうか。これは考え方の問題である。
少なくとも、いかにも自分らしい丸を厭らしいと思うようになった。だから、昔の絵を捨てた。25年前東京を離れるときに、絵を廃棄して、創り絵から写生画に変わった経験がある。絵が再出発出来た記憶でもある。私の絵は過去作り上げた絵ではなく、これから描く絵でありたい。捨てるついでに様々な人の絵が出てきた。50枚くらいあるだろうか。これはさすがに捨てられない。困ったことだ。捨てられないが、どうしたらいいのかもわからない。捨てられないのは作者に申し訳ないからだ。これも断捨離すると、アルカイダになりかねない。絵を買うことはできない。徐々にかもしれないが、誰の絵だろうというような絵を描いてみたい。良い絵を描きたいとか、自分らしい絵を描きたいとか、こういうこと自体を変えなければ始まらない。そうならないことも今から予想はされるのだが、せめて、過去の絵を捨てるところから始めた。
捨てながら、自分の絵がいかにだめなものかは痛感した。評価されなかった訳である。世間は見るところは見ていた。私でも全く認める気になれない。こんな絵でわずかでも、いい気になっていた自分が情けない。どうしてこんなもの自分が描くものとして、認めたのだろう。ひどいものである。そう思っえたのすべてを捨てて、出来る限りの新たな自分に向かうつもりだ。これは福島事故以来の再生でもある。福島事故に至った自分というものが、絵の中にある。上昇志向というか、認められたいというような自分である。捨てたところでそういう過去の迷惑をかけた自分を忘れてもらうことはできないが、残りの時間をせめてもの気持ちで、もう一度欲のない絵に向かうつもりだ。そう思いながら、でたらめという訳でもなく、昔取った杵柄でもなく。また詰め込むために捨てた訳ではないと、心して、ありのまま描いている。