日本を取り戻す

   

「日本を取り戻す。」ずいぶんと微妙なニュアンスの言葉である。自民党がコピーライターにお願いして作ったものなのだろうか。さすが上手いところを突いているような、何かばかげたような、不思議に記憶に残る言葉である。私が引っ掛かるのは、「日本」である。もちろん日本は千差万別、どうとでも受け取れる。我々の暮らしている国の名前である。なんとも、微妙で、ほろ苦いような、厳しいような、うっとりするような言葉である。どうとでもとれるという言葉であるから、安倍氏がいう日本は相当国家主義的な日本だろうなどと、勝手に推測できる言葉である。勝手に推測すれば、別段そんなゆがんだ受け取り方をしないでほしいと言えるところが、実に都合のいい言葉である。これが国防軍設立。などという揺るぎのない言葉を、標語にしないところが、なかなか上手い。と言える。

私の日本は当然、江戸時代の日本らしい日本である。でもこれはこの日本らしいが各人各様で、通ずるような通じないようなことになるのだろう。日本らしい日本は、やはり瑞穂の国である。田んぼの広がる日本である。棚田があり、里地里山に人々が暮らす日本である。今や、幻想になりつつある日本だ。言葉は怖いもので、別段安倍氏と何も変わりがない。変わりはないのだが具体的なことになると、安倍氏は靖国には参拝をしたいし、日本がやってしまった戦争を、侵略戦争とは思っていないようだし、憲法9条を変えて国防軍を作りたいということになる。私にはどう考えても瑞穂の国日本を取り戻す道には見えない。方法論の違いなのだろうか。里地里山の残る日本。ここに行くことは行くのだけれど、経済優先で行かなければ、結局のところ里地里山は疲弊してしまい、残すことが出来ないという考え方なのではなかろうか。いや、本当のところは、瑞穂の国は一応ことばにしただけで、里地里山などなくなっても日本はあると考えているような気もする。

以前街づくりの集まりに出たことがある。その時に小田原の商店主の方々は、押し並べて昔の活気のあった街に戻したいと言われていた。不可能なことである。江戸時代に戻したいというのも同じで、不可能なことである。日本は動いている。昔は良かったという発想で昔に戻りたいというのは無理だ。それは私にもよくわかっている。花田清輝流にいえば、江戸時代を否定的媒介にして、未来社会を作るということになる。「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」面白い言い方だと思うが、ほとんど理解されていないようなものだ。江戸時代の良さを未来社会に生かすためには、あくまで否定する。封建制や、女性蔑視、そういう個人の人権の存在しないような社会を、否定はするのだが、その背景にあった、江戸の農民の村社会を形成する理念を、未来に生かすように抜き出す。田んぼを耕作するのだが、底にある永続農業の形の理念を抜き出す。

里地里山の形成は、未来永劫の手入れである。田んぼの畦を土で作る。毎日沢蟹が穴をあける。ときにはその小さな穴が、田んぼの一角を崩してしまうこともある。そうならないように日々、見て回り、小さな穴を発見して、埋めては補修を続ける。面倒である。そこでコンクリート化した畦にするようになった。コンクリートの畦は味気ない。耕作していて実に不愉快である。この不愉快な感じは、永続性がないからだろう。コンクリートという名前にもかかわらず、土の畦より永続的ではない。人間が生きるというのは、コンクリートではない。藁の家より、レンガの家というヨーロッパ的な発想ではなく。自然に即す生き方を見つけない限り、日本を取り戻すことはできない。レンガの国防より、瑞穂の国の稲藁の国防である。田んぼの畦を作るように、毎日心配であるが、毎日の観察眼による丁寧な手入れ。小さな水漏れはあるが、毎日の手入れ。これが日本という国だと私は考えている。

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