なぜ農業者数が増えないのでしょうか。
3年前の5年ごとにある、農業センサスの感想に最近コメントがあった。その時は農家の戸別補償が農家の増加にはならない。むしろ新規就農者の制限になる。こういうことを書いた。その予測通りの進行である。その頃見学に見えた、首都大学の学生の方10人くらいの人たちの意見を聞いて、農業との距離にびっくりした時だった。自分が農業にかかわるなど、わずかでも思わない空気だった。その原因はどこにあるのだろうかと考えていて、私が居た頃のフランスを思い出した。社会の階層意識である。アルバイトを探そうと考えたときに、あれならやれると思ったのが道路を掃く仕事であった。ところが、大学生は掃除のアルバイトをしない。当然、農家にもならない。肉体労働者になる人たちと、大学へ進む人は違う社会。私はフランスに来るために、エレベーターの設置の肉体労働をした。アメリカからの留学生は、夏休みに、デトロイトの自動車会社で働くと言っていた。いつか日本は、フランスのような社会になるのだろうかと思った訳だ。
以下はコメントをくれた、「やまかく」さんの意見である。ほぼ私も同意見である。
(1)農業で生計が成り立つ見込みは殆んど無い。農業をやるにしても、安定した現金収入源を別途確保する必要がある。
(2)公共の農業施策は、自給農家を前提としていない。販売農家として経営を成り立たせることが求められるため、ハードルが高い。
(3)自給といえども、農地・家屋・資機材等のインフラは必要であり、それらを調達するための資金・人脈等が必要となる。
農業者数をこれ以上減らしてはならない。どうしたら減らさないかを考えてみたい。
まず、農業を取り巻く状況の判断。人口が減少を始めている。若い労働者は比較的自由に職業を選択できる。大学への進学もどこの大学でも良いのであれば、誰でも行ける状況がある。農家は嫁が来ないと言われる。だいぶ古い言葉だが、嫁に行きたい人は、3高で、高学歴で、高収入、高身長。つまりそういう本音が平均的にある。つまり嫁の来ないような職業に就きたいとはだれも思わないだろう。大学に行くというのは、就職予備校に行くことに近い状況がある。一般的な人生の選択が、どこかに所属するということになって来ている。だから、企業的農業の法人に就職する希望者はいる。もし農業会社の就職の条件が、一般企業より良いのであれば、就農希望者はいる。ところが、農業会社の将来性とか、企業とともに成長して、昇進できるというような社会的な背景が見えないのだろう。その意味で、農業会社を成長企業にするということは必要だろう。まだまだこの点が中途半端である。それは農協と利害衝突があるからだ。
農業が好きだから農業をやりたい。こういう人が出てくる状況を作り出す。まず、農業が身近になければならない。親でないにしても、身近に農業を楽しそうにやっている人がいなければならない。変わり者が、新規就農をする。社会からの離脱者が、新規就農する。仕事がないので、新規就農する。これでは、農業は衰退する。農業を義務教育で教えなければならない。英語を小学校でやる位なら、農業を教えるべきだ。英語が生きてゆくのに必要だという企業的要求は受け入れて、何故、瑞穂の国で農業は教えないのか。これでは農業が可能性がないということになる。食糧生産の自給が、国家として大切だということを認識しなければならない。日本という国の成り立ちに、農業が不可欠なものだという意識を、学校教育から作り直す必要がある。農業は高度な技術的世界である。見る目を指導する必要がある。やってみれば農業は面白いものだ。ダッシュ村でも、ダッシュ島でも、人間が生きるという原点を掘り起こせば興味は尽きない。
政府の主張するように、国際競争力のある企業的農業を推進すべきである。それは、普通の農家を追い込むことになる。その対策をしなければ、有利地域だけを企業が集めて、不利地域を一般農家がしょい込むことになる。集約して、大規模化するべき農地と、耕作放棄すべき農地と、条件が不利でも何らかの政策を持ってしても、維持すべき農地をとを明確化する必要がある。大枠ではそういう政策は言われているが、実際には農地法の改正には今のところ触れていない。農家の既得財産権に影響するために、やりにくい政策になるだろう。農地は耕作することでこそ意味がある。工場は生産して初めて意味を持つのであり、生産できない工場は負担になるだけである。国家全体として、維持すべき農地として指定をおこなう。指定された耕作されていない農地は、強制力を持って公共的所有にする。そして希望者に、営農可能価格で貸与する。