将棋はコンピューターに敗れた。

   

将棋はついに、コンピューターに征服された。この日が来るということは、予言されていたことだが、さすがにこうなってみると、相当に辛いいやな気分だ。その内、政治も社会もコンピューターが支配するようなことなるのだろうか。その方が合理性があるといわれるような恐ろしいことが待っている。20年前には、こんなことが起こるとは私のようなアナログ人間には想像もできなかった。その後、市民活動をやるには、まずパソコンを始めなければだめだ、という話を、山北の奥に住んでいるデザイナーに教えられた。そこで駅前で薬局をやっていたコンピューター教室の方に教わったのが始まりだった。その後、小田原に移って、タケさんとの出会いがあり、本格的に教えていただいた。しかし、相変わらず、そこより進歩せず、先日も立ち上げた掲示板の閉鎖が出来ないで、消していただいた。今持って自分で立ち上げた掲示板が何故消せないで、タケさんには何故消せるのかが不思議だ。

将棋は相当に熱心にやった時期がある。千駄ヶ谷の将棋会館の道場にまで、通い詰めたことがある位だ。5段までいったのだから、将棋を指した時期は確かにあった。その後は、コンピューターとだけ指した。ただし、米長氏が将棋連盟会長になって不愉快で止めた。10年くらい指したことはない。今後も指さない。その間に、人間を機械が追い抜いて行った。その経過をみることが出来たことは参考になる。初めの頃は囲碁の方が機械が強くなるだろうと言われていた。ところが結果をみると、囲碁は今だに弱い。まだまだ、機械的というかへんてこりんである。この機械的、人間的が怪しくなった。最新鋭囲碁ソフトでは三段レベルというようなことが書かれているが、初段レベルと機械が自称していたころやってみたが、初級者の私よりはるかに弱かった。本当だかどうかそのソフトは、北朝鮮が開発したものだと言われていたがどうだったのだろう。しかし、囲碁の方も10年もすれば、プロでも勝てなくなる可能性が高い。

最初にオセロとか、五目並べとかは、征服された。そして興味がそがれて行った。そしてチェスは、良くは知らないが、プロがコンピューターを使うらしい。さらにチェスを進化させた複雑なゲームが提案されている。コンピューターに凌駕された将棋は今後どういう経過をたどるのだろうか。ファーンを失ってゆく可能性がある。人間業とは思えない強さを将棋指しは持っていた。その驚異的な発想力に感動していた。羽生マジックと言われるような、まさかと思われる既成の思考法を、超えた発想の発見に、人間の頭脳の凄さをまざまざと味わった。ところが、機械の方が確かに人間業とは思えない強さを、当然のごとく発揮するのでは、人間の将棋に掛けた努力というものが空しくなる。私が将棋にはまってしまったのは、一種の依存症である。やらずと居られなくなる病気だ。寝ていようが、他のことをしていようが、将棋盤が頭に浮かび、将棋をやらずにはいられない。そして、勝ち、負ける。この精神的な起伏を味合わずにはいられ無くなった。

将棋を含めて、ゲームというものは人間にとって遊びなのだろうか。最近のゲームの世界はまさにコンピューターの別世界だろう。仮想世界の中で、自分の頭脳を当て込んで勝負する。アナログの将棋だって同じことである。生きているということとどうかかわりがあるのだろう。これを尊ぶべき文化と呼んでいいものだろうか。学校教育に取り入れるとか言われるが、遊びと教育の関係はどうなる。頭の訓練になるのか、悪い影響があるのか。太鼓の達人というゲームがある。太鼓をたたくリズムの正確さを競う。コロナの湯の入り口にあるので時々やっている子供を見る。中学生の頃、ドラムのステックで速さと正確さを競争した。自分用のステックを削りだすほど凝った。同じだなーと思う。手先が器用になったのは、ベイゴマにハマった時だ。子供のころから、そういう遊びへの依存症的な傾向があった。遊びに良いものと悪いものがあるのだろうか。

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