侍ジャパンの違和感
侍ジャパンという命名は、どうもいただけない。私の侍というものに対するイメージと、日本の野球チームとの関連が理解できない。特に、刀を抜け、などというフレーズが出てくると嫌な気持になる。侍の上に、ジャパンが付いているというのもさらに違和感が増す。しかし、子の違和感が現代日本を象徴した命名なのかもしれない。なでしこジャパンと言えば、女子サッカーチームである。何故、ジャパンなどと言わないと、日本という国が表現できないのだろうか。なでしこ日本ですがすがしいと思うが、古い感覚なのだろうか。いずれにしてもジャパンという外国が勝手に決めた名前に対して、どう対応するかは大切なことだと思う。中国のことをシナと呼ぶ人が今もいる。公共放送では、使わないことになっているらしい。シャイナと呼ぶべきなのか、中国でいいのか。中華人民共和国だから、中共といった時代もある。たかが名前、されど名前。
1 人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
新納鶴千代 にが笑い
2 きのう勤皇 あしたは佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切り者よ
野暮な大小 落とし差し
この歌は昭和6年(1931)に公開された日活映画『侍ニッポン』の主題歌。このころの侍のイメージと今の侍のイメージが随分変わっていることが分かる。どうも侍の立場と女性問題を天秤にかけているようだ。侍と言ったときに、どのあたりがスポーツ選手と結びつくのが、私には不思議なのだ。侍の精神は武士道である。しかし、ここでの侍と武士とは違うのかもしれない。武士道はスポーツには役立たない。どちらかと言えば、潔く負けて、悪びれず。の方だと思うのだが。これは侍に対する、個人的な偏見なのだろうか。たぶん、戦前の日本社会における侍は、もっと深刻なものだった。明治憲法においては、華族、士族の下位に平民が置かれた。つまり、元武士階級は士族である。士族が侍の末裔である。1947年まで戸籍にそのように記載されていた。人権差別明治憲法である。このことと、江戸時代の侍とは本質が違うという考えがあるが、そのことは別項で。
いずれにしてもスポーツで侍は使うのはもうやめにした方がいい。「ラストサムライ」という映画ではハリウッド的な侍のイメージが使われていた、アメリカが作る、日本への売り込み用の侍なのかと感じた。アメリカプロレスのイージーなストーリーを思い出した。戊辰戦争における、函館戦争を脚色したもののようであった。土方と思われる人物なのか、榎本武揚なのか、アメリカ的侍像が示される。いかに見事に敗れるかが表現される。滅亡の美学の一種だろう。若い人にとっての侍はアニメーション世界の剣豪というか、剣士というか、ニンジャというようなものだろう。ゲームの世界の中に登場する驚異的に強い侍像が存在している。この侍のイメージも武士の本質とはほど遠い。江戸時代の侍は、官僚であり、公務員である。武士のたしなみとしての剣術である。