江戸の剽窃

   

江戸時代の文化を見てゆくと、剽窃は当たり前のことのようだ。関西で流行した戯作があれば、直ぐ江戸風にアレンジをして発行する。浮世絵でも同じことで、はやりの様式が出来ると忽ちに真似られる。そもそも、真似ると言う事が、学ぶと言うことであり、悪い事をしているとは違うようだ。一度世に出た物をより良いものに、焼き直すのは当たり前のことである。そうして育ってゆく文化だったのだ。一度世に出た物を人に使わせないなど、粋ではない。宵越しの銭は持たない感覚である。利権を独占しないのである。それは和歌でも本歌取りに見られるやり方である。過去にあるものを生かす。こういう精神なのだと思う。それゆえに、共通の文化的素養が大切にされる。誰かがやったことをさらに意匠を加えて面白く演ずれば、拍手喝采の世界である。そして誰の何をどうしたという、蘊蓄を含めて楽しんでいたはずだ。三保の松原を富士山を含めた文化遺産に登録するなど、まさに江戸の感覚である。

書もそういう世界ではないか、文字と云うものは、自分が創作した物ではない。借りてくる形と意味に、託そうとする表現。文字の奥に人間を見ようとする。文字は中国で呪術的に作られる。そして、統治する手段として、政治そのものであった時代もある。国外不出の秘儀であったらしい。そして日本が学んでからだけでも2000年近い歴史がある。その文字を利用させていただいて、自分の表現を行おうというものが書道なのだろう。何が土台で、何がまねで、何がオリジナルのものか。書の何を見て何を味わっているのだろう。書の勉強と言えば、まさに書写と言う事になる。とにかく真似ることである。真似た果てに、たどり着く自分と言う物の世界。水墨画はどうだろう。これもまた真似る世界である。岩の描き方、水の描き方、植物の描き方。すべてが決まっている。似た物を作りたいと言う思い。真似ることが分かることの原点になる。

表現にオリジナリティーを求めるというより、様式を尊重する。美しいという共通理解の三保の松原の富士が意味があるのである。富士山は一つの記号なのだろう。富士山という図柄に対して、文化的な伝統が存在しなければ、富士山の絵が面白いということはない。2000年共通の文化基盤を育てた、日本ならではの絵画の在り方である。私が、梅原の富士の続きを描くということは、どうなるのだろう。マチスの見方で、富士山を描いたらどうなるのだろう。このことを考えると、絵の在り方がずいぶん狭くなっていて、新たなものを作り出すことが、芸術の基本であるという枠組みが絵を衰退させたのかもしれないと思う。芸術表現における個性とか、自己表現とかいうものが、案外に早く行き詰ったということかもしれない。

現代の文化が拝金主義であるということなのだろう。そっくりであるということは犯罪である。梅原の富士は一つと言われても、富士山を描くということにさしたる違いはない。人物だって、薔薇だって、さしたる違いはない。描く手法だって、そうパターンがあるわけではない。そういう中で何を描くのかが、絵画の衰退を招いたような気がする。一枚の絵の3月号に私の絵を載せていただいている。「水彩画をあそぶ」という特集である。実はそういうことをこの雑誌を見ながら思った。今月号はとてもいい感じにできている。私の絵は「伊豆海岸」という絵だ。自分の絵が出ているからというわけではないが、水彩画というものは、実に面白いものだと思う。油絵や、日本画とは違う、確かにあそぶといっても良いような世界である。伊豆の海岸にある、人間の暮らしが作り出した風景というものへの興味で描いた。まねているわけではないが、どこかで見たことのある絵のような気もする。

 - 水彩画