農の会の変化

   

農の会が最近変化をし始めている。農の会はこういう会であるというような会の枠を作らずに行こうと言うのが、参加者の期待値のようなものがあった。耕作放棄地の農地としての管理の引き受け手とか、新規就農者への協力とか、こういう看板のようなものは偽りではないのだが、一応表向きそのような看板が分かりやすいから、というにすぎなかった。それぞれが自分の生き方の都合で、かかわれるかたまりとして、イメージして利用してきたと思う。原発事故後その中心で活動していた人たちが、足柄地区から離れて行った。農の会が曖昧に構成メンバーによって動いて行ける形であったので、6家族が抜ければ抜けた後は、想像以上に大きな空洞が空いたように影響が残った。参加者の多くは、抜けた穴の大きさに気付くけなかった。残ったものもそれぞれの農業に、打撃が大きく、暮らしを変化せざる得なかった。苦しい2年近くが経過した。ともかく、現状を維持することに力を注いできたのだが、今年からは、新しい形を模索し始めた。

運営を各活動に分かれて、実行委員会方式で行おうということになってきた。それ以外どうしようもないという所まで来たということである。自然発生的に、曖昧にしたまま動いて行ける余裕が無くなったということでもある。一般的な運営形式になってきたということである。この誰でも考えるような運営方式になることで、農の会的なものが失われる可能性もおおきいのだろう。難しい所ではあるが、ここはそれぞれの知恵の出しどころである。誰もが気ままな参加をしていながら、活動が成立して行くような仕組みを生み出せるか。大きく成り過ぎて、こうしたあうんの呼吸のようなものが難しいのだろう。一定の常識的なルールを作らざる得ない所に来た。しかし、ここで再生が出来れば誰にでも同じことが出来ると言う意味では、より社会的な可能性は広がる。

先日大豆の会の味噌作りあった。初めて参加する人もいる。子供等も入れて40人ほどの集まりである。農の会の活動に初めて参加した、友人がいた。行政の職員である。終わってからびっくりしたというメールがあった。何も指示する人がいないのに、すべての作業が自然に流れて行く。手際良く片づけまで終わってしまった。確かにこの日は、リーダーになるはずの人が、家族の急病でいなかった。そのこともあって、初めての人の味噌作りの指示は誰がやったのかと言えば、隣でやっている、長年やっている人である。農業を協同作業でやるということは、そう言う事になって行くと思う。舟原田んぼは、特に指示が無くとも、集まり、作業が行われ、自然に休み、自分のペースで作業をして、片づけて帰ってゆく。自分の畑なら当たり前にやることを、何となくみんなでやっている。欠ノ上は私は昨年初めて、管理責任者として参加した。相当細かな指示をしながら行った。そうでないと進まない感じだった。今年は、できる限り指示なしで行きたい。

「田んぼをやってみたい。」こう思った誰もが、田んぼをやれるという事にしたい。これが原点である。今も、田んぼをやりたいという声がある。農の会としてこの人たちを受け入れることが出来るかどうかである。現状では受け入れることが出来なくなっている。これを変えられるかどうか。田んぼ、小麦、大豆、お茶と4つある自給の会が、それぞれにやりたいと言う人を受け入れてゆけるかどうか。自給してみたいと言う思いはそれぞれに違うだろうが、共同することで楽に自給が出来るという形を作る。例えば、田んぼ年10回の作業と1万円程度の費用で100キロのお米を確保する。これが目標である。課題は、グループの責任者が育たなければ、新しい希望者を受け入れられない点だ。グループの責任者に技術力が無ければ無理である。有機農業はそう簡単なものではない。技術が無ければ収穫がない。加えてみんなのために、負担を担ってゆく、共同の精神が無ければ続かない。

昨日の自給作業:欠ノ上田んぼの整備4時間 累計時間:13時間

 - あしがら農の会