民主党の失敗
期待を受けて登場した民主党が,「なぜ失敗をしたのか。」これからの日本の政治の為に掘り下げて分析する必要がある。一般にマニュフェストを実行できなかったから、不信を買った。それはその通りである。それでは何故、マニュフェストが実現できなかっただろう。官僚が非協力であったからだろうか。そもそも、無理な事をマニュフェスト化していたのだろうか。その二つも確かにあるのだろう。不思議なのは、ついに野望を遂げたはずのマニュフェストに対して政治的情熱が無かった気がする。その結果、衆議院議員になりたい人たちが、老舗の自民党に入れてもらえないので集まったように見えてしまった。寄り合い所帯で意見が割れて揺れ動いた。「コンクリートから人へ」この方角は、鳩山さんとともの、いつの間にか曖昧になり、いい訳だけが目立った。八ッ場ダム問題を見ると、どうしてもやり抜くという姿勢がなかった。反対に流されるままである。政治が行うことは、反対を含み込む妥協である。
コンクリートから人へという、政治哲学だけは崩さす、押し通すことが民主党の理念として必要だったのではないか。賛否混乱する中で、正しい道を指し示すのが政治だ。その根底に「コンクリートから人へ」こういう価値観があるなら、それを基準にする。ダムを作るなら、人の為でなければならない。人の為にマニュフェストを変えるなら問題がない。コンクリートの為がいつの間にか出現した。経済という思想に人間が巻き込まれた。高校の学費が無償化が行われたことはとても良かった。しかし大雑把すぎて、高額所得者家庭まで給付した。子供手当も同じことである。人に対するきめの細かさに欠けたことが、人への思いの足りなさを感じさせた。農業を再生する為には戸別補償は有効には働かなかった。農家戸数は減少する。耕地面積は減少する。自給率も下がる。その反省がないまま、だらだらと三年間を無駄にし、農業者の平均年齢だけが上がった。農業もコンクリートから人へのはずではなかったのか。
一次産業は土地の条件、自然環境の条件、人間の条件。こういう限界の中にある。日本という国土を考えた時に、農産物を海外に売るなどという馬鹿げた考えは捨てなければならない。果物なら国際競争力あると言う事が言われる。糖度の高い競争力のある人気品種は栽培が困難である。農薬化学肥料を多投入する果樹農業が広がれば、周辺住居地区への環境汚染が起こる可能性も高い。農業を考えるなら、稲作の事を考えなくてはならない。農業を国土保全と食糧の自給という角度からの主張は、人間の為のマニュフェストだったはずだ。その背景には、日本人の暮らしの歴史を踏まえた稲作日本文化という根底も確認する必要がある。それが、コンクリートから人への思想であったはずだ。そうだとすれば、TTPは筋違いのはずだ。結局はアメリカの圧力に屈しただけではないか。原発0を主張したことは、有難かったが、曖昧に揺れ動くために、その点での信頼感は醸成されなかった。
民主党政治をオコチャマ政治と呼んだ人がいた。口先だけで、現実の分析と、解決能力がない。普天間基地問題はそれを象徴した。自民党のように、辺野古移転をごり押しするよりマシだとは思ったが、結果として沖縄の基地軽減にはならなかった。政治には専門的知識と方法論が必要なのだ。自民党的な経験論も意味はある。科学的というか、学問的なアプローチで解決能力を高める必要がある。政治を志す人間は政治学の研究をしなければならない。未来党の失敗については、改めて書くつもりだ。民主党には松下政経塾の出身者が多数いた。ここの教育は相当に問題があると思っている。タレント養成学校のようなもので、政治哲学の志が低い。田んぼを一緒にやってみて、良く分かった。大変な所を外注するような姿勢では、哲学がないと言わざる得ない。民主党の失敗は、哲学が無かったこと、科学的な政治力の不足と考えられる。