水彩画家柳田昭が死んだ

   

水彩画を描く友人が死んだ。昨日、水彩人の総会があり、その席で聞かされた。柳田さんは安井賞を受賞する2,3年前からとても面白いものを描き始めていた。ところが、安井賞を受賞して以来、絵が良くなくなった。まさかフランス風景を描くなど思いもよらなかったが、随分方向が違ってしまった。そんな無駄なことをしていていいのかということを、本気で話したこともあった。我関せずという感じで聴く耳が無かった。それ以来私も彼の絵に興味を失った。個展の案内は来ていたのだが、見に行くこともなかった。それでも農業機械のことでは時々連絡があった。春にも買いたいと言っていたのだが、そのままになってしまった。電話では意外にもあれこれ茨木弁でこぼしていた。安井賞を受賞したことが彼の画家人生をおかしなものにした気がする。彼はこれで絵で生活が出来るとばかりに、ヤンマーの販売員を辞めた。辞めたらだめだとこの時も何度も話したのだが。年間一億を越えるノルマは、農家を騙さなければこなせないよ。と答えた。

彼の持つ良質なものが、ワイエス流の水彩技法を獲得してから、徐々に展開を始めた。その良質なものとは、土地というものへの神聖な感触である。それはワイエスにもある種類の神聖な感触で、あくまで文化の未成熟なアメリカの情景であり、憧憬ではないか。集団の文化の匂いが無い風景。日本やヨーロッパのように、どの風景にも人間の痕跡が、こびりついているところとは異なる。つまり、そう言うワイエス風の視点をもって、日本の農村の事物を描いた。その即物性から生まれる視覚で日本の農村を見る情景が、柳田昭の世界として提示された。簡単に言えば、古民家の向井潤吉氏もリアルに描く農村絵描きだが、いかにも日本の因習を含んだ懐かしさに基づいている。その対極として、ものとしての認識に原初化して、農村を眺めた時に見えて来るもの。ビニールハウスにあるリアカーが彼の祭壇になりえる。打ち捨てられたもののなかに、ワイエス的視線が注がれ、何でもないものであればある程、現実に迫る。

風土とか、歴史とかそういうものをしょっているように見えながら、実はアメリカ的な、感情を切り捨て割り切った視線のなかに、物的な視点というようなものが生まれる。これはワイエスの問題でもある。彼は農村の長男としてと語るが、下館の農家に養子に入ったとも言われていた。何度か農の会の農業機械を、探してもらって下館まで取りに行った。その時彼のアトリエも見せてもらったが、それは冷たく暗いアトリエであった。やたら次に描く絵のパネルや、描きかけの絵が積みあげてあった。手順が決められていて、順序正しく進められていた。灰色から褐色までの絵だと思っていたが、彼はどうしても絵の具は全色使うと言い張っていた。あれはどういう意味であったのだろう。色が足りないと言われている、反発だったのだろうか。私は、あんたの仕事は、ここが出発点で本当の農村を描く仕事は、まだ少しも始まっていない。日本人が描く日本の風景は、人間が作り上げた農村を描かなければ。これでは、廃墟を描いているようなものじゃないか。等と憎まれ口を聞いていた。

彼は口は重い方だったが、自分の絵に対する思い込みは絶対なタイプで、他の絵描きと接することは苦手だった。誰をも切り捨てている調子だった。ヤンマーを辞めてしまってからは、自分の絵のバイヤーのようになった。これは少し哀れだった。絵を売るのに画廊を通すと、バカに取られてしまうので、直売でやると言うのだから変わっていた。フランス風景の方が少しは売れるので、絵はフランス風景になってしまった。日本には絵描きを育てようという画商が少ない。ワイエス、ワイエスと言いながら、アメリカの田園風景を描き始めるならまだ分かるが。結局、あの下館の農村をワイエス風に描いたものだけが、画家柳田の作品として残った。その絵だけで評価するしかないのだが、どうしてもやるべき仕事がこの先にあった気がする。死んだ友人を悪く書いている訳ではない。この時代数少ない絵描きだった。認めていた人間が、仕事を進めることが出来なかったことが悔しいのだ。

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