天気予報の余計なお世話
天気予報が余計なお世話を言っているという話を、くだかけの和田さんが書いていた。まったく、そうなんだよと膝を叩いて同感した。傘を持ってゆけぐらいはまだ許せる範囲だったが、今日は日差しが強いですから、日焼けに気おつけて下さいとか、風が冷たいからカーディガンぐらいお持ちの方がいいのでは、もういい加減にしてくれという状態である。そんなことを言って居る間にもっと伝えるべき情報があるだろうと思う。NHKの方で中村次郎さんという天気予報を担当していた方がいた。季節の風物詩、歳時記と天気予報を重ね合わせて、とても良い天気予報だった。今でもたまにテレビに出る。最近の天気予報担当者は余計なおせっかいになっただけでなく、女優きどりが出て来るようになった。まことに不愉快である。情報は情報として成るたけ分かりやすく、伝えればいい。自分を売り込むことの方に躍起となっているような調子は、不愉快でしょうがない。
こうしたことは最近の世の中の傾向。年寄りっ子は3文安い。というやつではないか。言われなければ出来ない人間を作っている。至れり尽くせりのつもりでも、情報などというのは、どこまで行ってもほんの一部だ。肝心なことは、自分が見極めなければならない。その能力をどんどん低下させているのが、テレビだ。これは、報道対象の判断力を低く見ていることを意味する。気温を言ったぐらいでは、何を着たらいいのかが分からないのではないかということだ。それはそうかもしれないが、そうしてしまったテレビ情報側の、責任を考えるべきだ。自分の頭で考えるという習慣をテレビが奪っているということになる。例の一億総白痴化である。ただ受け入れる人間を作り出していないか。天気予報を聞いても、自分なりに読んだ方がいい。それ位しないと、農業には役立たない。
明日の天気位までは良く当たるようになった。気象衛星のせいだろう。相変わらず長期予報は当たらない。これの精度が上がれば農業に役立つ。週間予報は、予定を立てる上で良く見るが、これも当たるとまでは言えない。すぐずれて行く。小田原当たりの天候の変化は、天気予報より少し早まる。東京の予報に引っ張られているのではないか。午後から雨と言われても、昼には降り出している場合も多い。私の母は日本中どこの雨でも、今日は雨だよ。と言っていた。その都度、それは新潟のことだよ。それは栃木だよとか指摘していた。黙って聞いてあげればよかった。私は大体良くなる方に考えてしまう。これはとても危険で、あの地震の時も、これで収まると、大したことにならない方に、考えていた。これは性格なのだろうが、事故や事件の際には、とても危険らしい。すぐに動こうとはしないし、いざという時に、大したことはないと思いこもうとするらしい。
天気予報が過剰サービスになるのは、当たらないかもしれないという不安があるからではないか。当たらないという事を許さない人がいて、外れたと言ってはテレビ局に苦情を言ったりすのではないか。その反動で、親切に見せかけようという傾向が強まってしまったのではないか。ついでに言えば、あの降水率というのは駄目だ。30%雨と言ってもどうもわかりにくい。責任逃れの手法。30%と言えば大抵大丈夫である。ただし、利用する方の結果は必ず一つである。その一つに対して、どういう判断をするかは、自分である。天気予報の情報をもとに、自分が決めれば、誰に文句も無い。熱中症が増えているのも、自己判断が出来なくなった表れではないか。