ヒットラーの絵
ヒットラーは10代の頃は絵描きを目指していたということは何かで読んだ。その頃の絵が残っているが。良く集めたホームページがある。絵のレベルとしては絵を勉強したり、写していた範囲である。不器用な人の絵だ。芸術的センスが不足していたことが分かる。こうしたコンプレックスが独裁者への道になったと言われてもいた。独裁者になってからの、偏向した美術への口出しに現われる。もし最近ネットで競売された絵が本当にヒットラーのものでり、つまり偽物でないなら。2重人格者である。人の目が気になる人に変わっている。評価されたい人。何のために絵を描いているかが、芸術とは違う方向の人になったということがわかる。しかし、この絵がヒットラーのものとはどうしても思えない。初期のヒットラー絵とされるものが、当人も認めていて、保存されていた事も不思議である。まともならこれらの絵は廃棄しただろう。
こんな絵である。絵にならない一番の原因は、作者が居ない所である。絵という概念を写している感じだ。全体のバランスが狂っている。細部に固執するために全体が見えていないゆえである。固まってしまった感性。柔軟性とか豊かさとは無縁なもの。若いのびやかな感性が、まったく見えない。そっれ故にその後の人間性の欠落したヒットラーが想像できて、なるほどそうかと思えるものだ。良い絵描きになる人は、デッサン一つでも最初からそれなりの絵を描いているものだ。中川一政氏の20代の絵の良さなど好例である。結論から手っ取り早く、上手になろうと言うことが一番まずい。このやり方では、素早く進めるように見えるが、結局は自分の絵と言うものに到ることがない。前近代的なものが、実に古臭い匂いが漂っている。
今度ネットで販売された絵である。これが意外にも絵にはなっている。暗い情熱がある。わたしが興味をもったのは、夜の満月に照らさせる海の絵を描いている事だ。私も3月11日の後、やっと絵を描いてみようと思ったのは、この満月の海の情景である。それで何か引っかかるものを感じた。この2枚の絵が同じ作者とは思えない。多重人格者であったのだろうか。随分捨てている。リアルな手法だけは似ているが、作者というもののこころが出ている。出てきた作者がヒットラーではない気がする。どうしても違う作者の絵に思える。寄りかかる所は、こういう絵を描く人は一般に芸術というものを信じていない。芸術をプロパガンダに使うという意味では、いわゆる実用芸術を絵とする人かもしれない。割り切れないものを、ないものとする人が多い。何が芸術なのかを考える必要が無い。見えているものを巧みに描写する。絵をその程度のもので良いと出来れば、お手軽ではあるのだが。
ゴッホは価値ある絵を描くことで、自分という存在の価値を確認しようとした。価値ある絵が描けないということで、絶望して自殺をする。評価されると言う事で、自己の存在証明をしようとした。確認をしようとした。わたしの場合は、価値のある絵を描がけているという自覚が無い。それでは自分というものに価値が無いかと言えば、そうでもない。わたくしというもののままを確認して行く他ない、と考えている。他からの評価で自分が確認出来るものではない。自分の目が見ているものは確かにある。あるという認識がある以上、それを画面に表現してみたい。それが出来ることなのかどうかはわからないが、それに近付きたい。ゴッホは多分、自分の目が見ているものを、画面に表現で来たのだ。その自覚があるのに、それを理解できない、世間に絶望する。出来ない内の方が苦しみは少ないか。