水彩人同人展

   

2012年2月7日(火)~16日(木)銀座の「ギャラリー一枚の繪」で同人展を開催する。同人18名が3,4枚の絵を出品することになっている。絵は現在小田原のアートポイントと言う額屋さんに出して額装してもらって居るのだが、タイミングが悪く取りに行けなくなっている。何とか今日中には発送したい。絵を描いているということは、自給生活の一環である。自給生活は仙人生活ではない。表現するということも含んでいる。絵を描くことはこのブログとほとんど同じことである。願いのようなものだ。文章とは違う形で、考えている事を絵にしている。当然原発事故以降の日本の現状を描いている。しばらくは絵を描けない日が続いていたが、何とか昨年の暮れあたりからは、少し描いている。絵が描けないということは、捉えきれないということだろう。文章は書いているのだから、絵と文章は似ていてやはり少し違う。わたしの絵の描き方では、分からないことは描けない。文章の方が混乱の状況を書きやすい。

何故か、私の絵の描き方では、結論が分からないことは描けない。私が描いているものが絵と言うジャンルであるのかどうか。正直自分が描くものが絵という芸術にかかわるものとまでは言えない。だから、発表するということはとても申し訳がない。それで個展と言うものは出来なくなった。文春画廊で生前葬のような形で行った個展を最後にした。今は、恥ずかしながら、まだ何やらを描いているという状態である。水彩人展は研究会であるから、許していただこう。と言うことである。その意味で画廊の方には、本当に理解していただいている。お詫びが先に来る。絵を販売してそのお金を支援に回すというのもあるだろうが、私の絵は売れる様なものではない。わたしの絵で気分を紛らわす事が出来るなら、福島の方に差し上げたい。そんな気持ちで描いていた。

絵は描く人と見る人とが居て成り立つ。ただ描いているというのでは、絵ではないと考えている。絵によって、自分と他者とに向かってゆく。この明確な意思をもつものこそ芸術としての絵画だ。自分の内部に向かって行くのだが、その根底で人間そのものにぶつかる。人間全体の本質に直接ぶつかり合うようなものでありたい。絵画は誤解されている。絵は事象を説明するものではない。心情や気持ちが図式として、こんなに悲しいですよとか、こんなに嬉しいですよとか。説明が現われて来るのであれば、それは絵画ではない。具体的に書けば、赤色を画面一面に塗るとする。赤は血を表しているかもしれない。赤い花かもしれない。太陽かもしれない。命そのものかもしれない。そのすべてかもしれない。そう言う意味を越えて、自分の奥底にある赤色として、赤を塗りこめながら、その表現者としての内包するすべてを総合したもの、飛躍し直結する赤色として表す。この感触は描くものでなければ伝わらないかもしれない。ある種の妄想のような世界だとおもう。

この醍醐味が絵を描くと言うことになる。説明でなく、意味合いでなく。目が見て、「ああ、あ・・・」と深くしみ込んできたものを、沁み込んだ形のままに、ただ再現して行く。この感じは絵を見てもらうしかない。出来ているかは別にして、そうやって絵を描こうとしいていることだけは確かである。もしかしたら伝わるのかもしれないという期待がある。残念なことはわたしという人間の底の浅さである。浅さがもろ出て来る。こういう目で、マチスの絵を見るとその人間の豊かさに驚嘆する。絵と言うものが素晴らしい芸術的方法であると言う気持ちは捨てきれず。表現してみたところで意味のないような浅薄な自分であるのだが、描いているということになる。私が会場に行ける日は、7、15,16の予定である。その内、15日あたりで、会場で水彩画を描くことをします。

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