地場・旬・自給の確認
「地場・旬・自給」は農の会の設立の理念である。この理念のもとに集まった集団と言う訳でもない。そんなものは、笹村が勝手に考えてきたもんだと言われればそうである。と言いながらも、20年近くこの考えを繰り返し伝えてきたので、ある程度は了解され、浸透しているものだとは思っている。福島第一原発の深刻な事故によって、この土地から離れる人や、活動を見合わせる人が、相当数存在する。そうしたこともあって、もう一度『地場・旬・自給』の確認作業を行う必要があるのかもしれない。と言って、農の会はこうあるべきと言うことをここで主張している訳ではない。農薬や化学肥料を使う人は、農の会には居ない。それはあまりに当然で、会の理念と言うものではない。しかし、理念に安心とか安全とかいう言葉が無いのは、必然でこの会が自給的生活者の会であり、販売は考えていなかったからである。自分が食べるものに、安心の標語は変だ。
放射能に対する態度も同じで、購入者の為の対応をどうしようか考えるのは、おかしいと思っている。自分が食べる上で、どうかということが中心である。他人がそれをどう思うかとか、どう影響するかとかは、別の事である。消費者と言う存在は、ある意味否定しているのが、農の会の理念である。はっきりと「自給」を理念として目指している。いつまでも消費者でいると言うことを良しとしていない。現状は条件的に消費者だが、可能な時期になれば少しでも自給を行う。もちろん厳密に問うて来た訳ではないが、そういう精神で来たことは確かだ。農の会は緩やかな運営と言うことをモットーにしているから、なんとなく、時間がかかりながら、そんな考えらしいと伝わって行けばいいと思っている。
今回多くの人が会を離れて居る。それは会の危機ではないかと言う人もいる。全くそうは思っていない。人数が増えるとか、会が大きくなることが、会にとって望ましい事だとは初めから考えたこともない。農の会で考えたことを、次の生き方の中で、いくらかでも役立ててくれればいいと思う。減った所で変わらないような組織に成っている。人数が居なければ成立しない理念であれば、一人では成立しない。止めても何も変わらない体制であれば、参加者すべてが自分の生き方としてやりたいから、やっていることになる。農の会で活動しているのは、どこまでも自分の為である。人の為でもないし、まして社会の為でもない。できる限り自分の為である。もちろんそれが、地域にとって有効な活動に成っている現実はある。
今問題になっている所は、地場の暮らしの成立の危機である。地域循環が崩壊しそうだということだ。この点が農の会の理念が脅かされているという点だ。堆肥を作ることが危ういということは、とても苦しいことだ。樹木の汚染がどの程度であるか。落ち葉がどうなのか。土壌はどうなのか。測定しなければならない深刻な問題である。江東区内の集積場の腐葉土は789ベクレルのセシウムが検出された。測定費用が足りない。100か所測定するとして、70万円の資金が必要である。以前から測定分でも、すでに30万くらいになっているのかもしれない。本当のところを言えば、地域全体を測定し状況の把握をしたい。何とか出来ないものだろうか。
昨日の自給作業:小カブの播種 ハウスの片づけ 累計時間:18時間