市民協働とは?
「市民協働とは市民、市民活動団体、事業者及び市がお互いの立場を理解し、不特定かつ多数のものの利益の増進を図るための共通の目標に向かって対等な立場で努力し、その成果と責任を共有しあう関係」といえます。市民活動団体と行政が協働するためには、お互いの特性と立場を理解し、情報を共有し、協力する関係が不可欠です。行政には、情報をわかりやすく市民に提供することにより市政への関心を高め、市民のまちづくりへの参画意識を高めていくことが求められています。行政主導での形式的な参加ではなく、まちづくりの主体としての市民の参画が協働社会の土台として極めて重要ですし、市民自治を進めることにもつながります。以上は福井市の市民協働に関する考え方である。多くの市町村が市民協働を模索している。小田原でも、市民活動推進条例がある。この条例に基づき、市民活動応援補助金が運営されている。
小田原市市民活動推進条例は、誰もが本市に住んでいることを誇りに思え、未来に生きる子や孫たちへ向けて、魅力と活力にあふれる小田原のまちを築くために、市民を始め、ボランティア活動を行う市民活動団体や事業者、市役所が対等なパートナーとして、互いに、力を合わせてまちづくりに取り組むためのルールを定めたものです。 小田原市は、こうした市民が自らの意思と責任によりまちづくりに係わる市民参加都市を目指しています。 と書かれているが、実際のところ何を意味しているのか、具体性はなく観念的条例となっている。その大きな原因は、市民協働に対する市民側の意識と、行政職員の意識のかい離が目立っている為と思われる。この条例に対する委員会の総括にも、行政職員の意識改革と教育の必要性が書かれている。教育がどのように行われているかは分からないが、意識改革の萌芽はある。
残念ながら現時点での行政の市民協働の理解は、仕事をどのように市民に肩代わりさせられるか。と言うことに尽きるようだ。市民丸投げ方式とでも言えばいいのだろうか。市民の利己的意識が、行政の役割を日に日に拡大してきた。何でもやる課に代表されるように、本来自ら取り組むべき、暮らしの周辺部分まで、行政に依存し要求する市民意識。こうしてしまったのは、市会議員や市長が選挙のたびにサービス合戦をせざる得ないことによる気がする。議員として、地域にサービスを広げました。これが次の当選の為の主張になる。これだけ市の仕事を減らしました。これではなかなか当選できない。民主主義を利権的政治と間違えた結果である。「何をしてくれるかではなく、国に何が出来るかである。」ケネディーの言葉である。市民が小田原市の為に何が出来るか。その思いを反映できる行政でなければならない。行政は肩代わりを望むのでなく、行政でなければできない役割を認識する必要がある。
以上のように改めて考えたのは、桑原鬼柳のメダカの保全の事である。基本的な観点として、業として行う仕組みの構築である。農業がおこなわれることによって、田んぼ環境が守られる。そしてメダカは絶滅を免れる。市民は保全のための活動を行う。それがなければ、メダカの保全の永続性が見えない。しかし、田んぼが無くなればメダカもいなくなる。市民側は何とか田んぼを維持してもらうために、「メダカ米」の販売を続けている。これはめだか物語の付加価値のある、小田原ブランドと言うことでもある。月一回でもいい、小田原市の教育委員会がこのお米を学校給食に取り入れる。もうこのことを7年前から言い続けている。この為の調整が行政のメダカの為の役割ではないか。農水省も、JAも、教育委員会も、建前としては反対をする人はいない。