田んぼの再生
このところ子ノ神田んぼのアラオコシと代かきをしている。全部で2反はあるようだ。昨年は欠ノ上で3反の田んぼを戻した。戻してみて分かったことは、機械力もない時代に、こうした田んぼを作り出したすごさである。土木力、百姓力。どちらの田んぼも久野川の北側の斜面である。田んぼの中に巨大な石がある。全体が河原だったのだろう。石を積み上げて、棚状に直して、そこに土を運び込んだはずだ。江戸時代初めのようだ。それは、坊所からの山を掘りぬいた水路や、一つ上の集落である舟原の溜め池の構築が万治年間と言われている。1650年ころのことか。その頃、土木工事熱が盛り上がっていたようだ。この欠ノ上に始まる水路は、とても長いもので、ずっと下の平野部まで導かれている。しかも上部は、掘り抜きの暗渠の水路である。当然崩れ始めていて、あちこちが落っこちてしまっているようだ。場所によっては危険で困ると地域の人が言われていた。
私たちの使わせてもらっている水路も、相当に壊れかかっていて、先日の大震災では石垣が崩れてまった所もあった。それでも何とか、水路の確保できてやっと代かきに入った。代かきに入ったら、代かきをしている最中に、あちこちが抜けてしまい、一大事である。有難いというか、幸いにも下によその方の田んぼがあるような所でないので、抜けて川に水が流れ込むという状態である。今年のところは、田んぼを一回り小さくして、応急処置と言うことである。もう一つ困ったのは、田んぼを止めてから畑をやった時代があったのだろう。耕盤が無い場所がある。代かきをしていてトラックタ―がぬめりこむ。これが怖い。危ないので人に任せられない。少しずつ慎重にである。今年は何とか田んぼになればそれで良しとしなければならない。6枚の棚田の、水路の経路が確定できないことも今後の水管理の課題に成るだろう。
欠ノ上田んぼの苗がとても良かったことである。さすがに岩越さんの管理技術の良さもあると思うが。水温の違いもあるかもしれないが。結局種籾の違いのようだ。舟原の種籾はいつも良くない。同じ欠ノ上の苗床で、作った岡本さんの苗は、種もみが舟原のもので、苗が小さいという。やっぱりそうかである。舟原のお米は粒が小さい。考え方として、良い種もみが良い稲作に成るとは言えないという考えできた。舟原でも良くできた場所もある。そう言うところで種籾を選ばないできた。平均的な所の稲から種籾は採ることにしている。どうしても良いところは水温の高い所になる。それでは長年の間に、偏りが生じ状態が悪くなるという風に考えてきた。今年、岡本さんと隣り合わせで作る。欠ノ上の種籾の井関さんの田んぼを、比較して見ることはとても興味深いことに成る。その結果をよく観察して、今後の種籾の考え方を整理したい。
子ノ神田んぼでは、御神楽を奉納する。井関さんが御神楽を舞うそうだ。とても楽しみである。楽しみは田んぼにどれだけ効果があるかである。これで豊作になれば有難い。祈りが通ずるというようなことだけではない。地域の方と一緒に成って田んぼが出来るようになれば、これは違う。水路のごみを一つ拾う。こんなことが田んぼを良くして行くのだと思う。欠ノ上集落には、神社があり、観音堂がある。その信仰も今に繋がっている。欠ノ上は地域としての完成度が高い。1650年に田んぼが作られたとして、360年、300回目を越えた田んぼだろう。土も立派な田んぼの土である。棚田にしてはとてもいい粘土状態に成っている。3年もやれば最高の田んぼに成るに違いない。ここまでにした、ご先祖方に感謝をしなければならない。久野川の田んぼも1町歩を越えた。まだまだ、作られていない田んぼはある。