桜咲くけれど

   

舟原のあたりでは、今日あたりが桜の満開である。昨日は秦野の1キロ以上も続く桜トンネルを通った。諏訪野原のフラワーガーデン前の桜並木や火葬場の桜も既に散り始めている。ここも花吹雪の桜トンネルとなっている。1キロはない距離だが、4,5日はづれる。これが和留沢まで行くと1週間から10日遅れる。小田原で暮らしている楽しみの一つは、この季節の場所による変化である。今年の桜を桜として見ることが難しい。どうしても目が樹を見てしまう。あの黒々とした、不気味な割れ目を持った。爬虫類的な樹肌に目が行ってしまう。美しということが主観的なことだということが、しみじみと確認されてしまう。父や母が亡くなった時と同じような重い気持ちに取りつかれている。晴々と桜をめでる心境にはなれない。美しいは花の姿ではなく、心の中のことだ。この不安感と挫折感を取り除けることはない。我々世代が後世に残した原子力利用という悪魔をどうしたらいいのだろうか。

化石燃料の枯渇が、産業革命以来のこの機械文明の大きな問題点であった。今度は、さらに原子力エネルギーという、何千年もの未来に対し負の遺産を残す無残を、ともに背負ってしまった。レベル7という最悪の事故を起こしたにもかかわらず、原子炉の停止しての見直しどころか、停止中の原子炉の早急な再開の要請をする、経済団体。この今も、福島で大地震があるかもしれない。あの壊れかかった原子炉のひび割れがさらに大きくなったら、どうするというのだろう。炉の状態はいつまでも不明である。商売の為に違いない。まだ原子炉の輸出をあきらめていないハイエナたちが、原子炉の機密事項の露呈を恐れている。アメリカの支援要請も断る。諸外国の協力要請も原子炉本体には近づけさせない。今更日本の技術などにしがみついている人間たちには、「この難関を見事に乗り越えた、日本の英雄的原子炉技術者達。」等という幻想がまだ広がっているかのうようだ。

桜の花に惹かれるこころは、花そのものの美しさと、枝に散らばる加減の良さだと思う。杏子であれば、花はもう少し小さいし、白さが鮮やか過ぎて微妙さが乏しい。枝にびっしりとつく姿はとても美しいとは言えない。桃の花を中国の人たちが目出るのはわかる。色の艶やかさ、花姿のぼってりとした濃厚さ。美人のさらなる厚化粧という趣である。梅は匂いである。枝ぶりの良さは格別な風情だ。早く咲くだけに、厳しさを兼ね備えてよほどの覚悟がいるような、対する者に厳しいものだ。いずれの木も花が終われば実となり、果樹としての見事さがある。桜だってさくらんぼになるという人がいるかもしれないが。あれは日本の桜ではない。桜に実がなると言うイメージは、私の気持ちではつながらない。桜はただ散るばかりである。桃があの艶やかさの上に、見事な実を付ける。立派な木である。桜は涼香に一人で咲いて、一人で散る。見るものが後の実を待ち望むような、一切の想念をはねつける。ただ、しばらくの花だけを見ろと言わんばかりである。

このすべてが実とならず、築いては消え去る。このもろい島国に暮らしてきた日本人。何度も何度も失うことをしてきた。それも、異民族の侵略によってというようなものでなく、ある意味自滅を繰り返して来た。バベルに暮らす民族のようだ。明日をも知れぬ日々を、人夜の桜で満足してしまうような危うい暮らし。危うさをすぐ忘れさせてしまうほど美しい国土。あの焦土化した東北の海岸線も、夏には夏草に埋もれるだろう。そして、この未曾有の大災害を抱え込んだまま生きてゆくだろう。何度も何度も耐えてきたのだから、今度も耐えきる事が出来るはずだ。桜はただ咲き、ただ散る。桜の花にある淡い桃色の澄んだ美しさは、白とは呼べない深い白である。白を白として見せるためには、ある濁りが加わる必要がある。その濁りの微妙な味わいこそ、複雑に心が反応するところである。悲しい時は悲しく、楽しい時や楽しく。この大災害を受けて、生きる実感を失いかけていた日本人が、生きることに直面するようになるかもしれない。

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