里山の生業
里地里山の環境が崩れてしまったことは、そこに暮らして行く『なりわい』が失われたことにある。これは多くの人が繰り返し主張してきている。都市近郊の神奈川県の里山は、大半の人が勤めに出ていて、ちょっと不便な住宅地というのが実情であろう。話は飛んでしまうが、TPPに参加して自由貿易を進めることは、避けて通れないことになっている。それは都市の論理が優先されているからともいえる。都市の論理とは、競争の論理ともいえる。勝利者の論理である。里山に暮らす人も都市に依存して暮らしている。しかし人間が暮らしてゆくということは、勝ち負けではない。大多数の普通に暮らす者は勝利者に従って暮らしているようなものだ。なんとなく諦めて、それを受け入れて生きている。私のようなひねくれ者は、何とかこの流れから離脱しようと、いわば都市の論理でいえば敗者の道を生きている。それが自給の暮らしということになるのだろう。
どうすれば里山に生業が再生できるのか。都市的な競争の原理に巻き込まれてしまった現状から、どのように離脱で出来るのか。小田切先生にお会いしてから、もう一度考えている。都市的な再生法を押しつけることではだめだということである。良くある意見が里山の特徴を生かした、競争できる商品を作り出して、というような、都市的論理が持ちだされることが多い。多分都市に暮らしながら、解答を模索すれば、そういうことになるだろう。しかしその再生の方策は特殊解に過ぎない。ある特定の里山の中での競争の勝者を生み出す結果となる。そのような方向が解決に成らないことは、直感的に感じ始めている。里山に都市の論理を持ち込んだところで、違和感のある不思議な成功事例が、ニンジンの馬としてぶら下がるだけだ。では補助金で再生する。これも駄目である。人間の誇りを台無しにしてしまう。結論としては里山は里山に戻るしかないのである。
都市の論理や、資本主義の論理での再生は考えない方が良い。里山には里山の競争があったはずだ。とことんの競争がなければ、里山で暮らして行くことなど出来なかった。里山での競争は人間が生きる共存の原理の中での、技術と感性と体力、そうした総合の人格の競争である。有能なものがその能力を十分に発揮して、地域を形成する。能力の不足する者も、その能力に応じた役割を持って協力する。人を出し抜くのでなく、人ととも生き他ない世界。そこでの競争は人間が生きる能力を深める競争である。循環する環境の中での競争は、育む競争である。深める競争である。他地域との競争は、滅ぼしてしまう競争である。地域主義の再生だけが次の時代の展望。TPPがさらに地域を崩壊することだろう。地域循環を断ち切る様々な要因が強化される。暮らしを構成する「食べ物、住まい、燃料」が海外から押し寄せる。中東の石油と競争を強いられる炭焼き。アメリカ米と棚田のお米。
しかし、里山暮しほど生命として生きている実感がある暮らしはない。都市に生きることが経済的豊かさへの競争であるとすれば、里山に生きることは、日々生きる充実を深めることである。里山の暮らしほど確かで、充実した暮らしはない。この20数年その有難さをかみしめる毎日であった。自分でやっと作った不出来な秋ジャガイモを少しづつ掘って食べている。安納いもも小さなものだが、焼いて食べる。何と美味しいことか。食べているのは出来た生産物だけではない。苗を作るところから、栽培技術の工夫などすべてを頂いている。何とも限りなく有難いことか。生きるということを確認し深める。この深い豊かさを次の世代にも味わってもらいたい。それは里山に暮らしてみない限り見えない世界である。そこまで戻っても人間は大丈夫だ。