最高検検証結果は

   

冤罪が何故作られるのか。このことにとても関心がある。権力が国民をどのように扱かっているのかが見えるからである。権力を持つ側は権力を持っているという自覚が不足するものである。今回の村木さん事件は一連の異常な特捜部の権力行使が問われている。検察そのものの信頼が維持できない状況に至っている。注目点は捜査の可視化に踏み切れるか、と見ていた。所がこの点で、前進があったどころか、大きな後退をしている。今回の最高検検証結果は、検察の異常な権力行使に対する自覚が欠けている。自浄作用はやはりないということが良く分かった。身内が身内を検証するということが、不可能なものだということが改めて、分かるものであった。この事件の調査にに外部のものが加わるべきだという意見は、最初からあった。泥棒が泥棒を調査するようなものだと、書いた記憶がある。検証結果が出るころには、事件が風化しているだろうという、計算が働いている。

想像の通り世間の空気は、変わっている。村木さんが復帰したからいいではないかぐらいのことである。今回の村木さんの国家賠償請求に対しても、何やら冷やりとした報道になっている。報道は権力を監視するのが仕事のはずだ。報道機関の野次馬化と問題意識の低下。検察が何故村木さんを逮捕拘留してしまったのかを、正確に判断することが第一義であろう。まず村木さんへの聞き取り調査を全くしていない一方的な調査の歪み。組織の在り方をどのように変える必要があるのか、不明瞭な最高検検証結果である。もしこの程度の検証で良しとするなら、また冤罪がでっち上げられる可能性がある。いつ罠に陥れられるかという、国家の脅しの下に生きなければならない。100人の犯人を逃すとしても、1人の冤罪を起こしてならない。強い決意がなくてはならない。疑わしい位で処刑してしまうのが独裁国である。

検証すべき大阪特捜部内が次々逮捕された。彼等は専門家である。自己保身のためにまともな証言をしないだろう。この聴取は可視化されているのだろうか。組織的、構造的な問題点こそ問われなければならないにもかかわらず、到底そうした方向には行くどころでない。事故機のパイロットを免責しなければ、次の飛行機事故は防げない。個人的な資質に問題を矮小化しようという動きと考えている、権力としては都合がいい結論がすでにある。供述偏重の姿勢が問題であり、証拠主義に変わるべきという、原点がまた忘れられている。取調べ全過程の録画(取調べの可視化)しかないのである。一分録画化はより問題を混乱させれることを忘れてはならない。一部録画はデッチ上げに利用しやすいのだ。検察の都合の良い部分だけが、録画化されているのでないかという、疑念が残る。いかに今回の検証が甘い、政治的配慮であるかが分かる。

以上のような最高検の自己検証力の弱さから判断しても、高検・最高検への報告や了承の制度を強化したところで、冤罪の再発、事件のデッチ上げが無くなるとは言い難い。今やるべきは、村木さんの国家賠償裁判で、国の犯罪を暴きあげることだ。報道は権力を監視する機能としてこの裁判を広く伝える義務がある。多くの報道は社説で取り上げてはいるが、今のところ表面的である。全過程の可視化を要求する必要がある。秋田さきがけ、南日本新聞、高知新聞、では全面可視化を取り上げている。日経はあいまいに可視化賛成のようで、朝日や毎日はさらにあいまいさが目立つ。読売は全面可視化反対である。読売はなぜ反対なのかを、示す責任がある。

 - Peace Cafe