仏教経済学

   

本の中に入れたが、仏教経済学を提唱している安原和雄氏のホームページである。以前から時々読ませてもらっている。なるほど自分の考えが、仏教から来ているのかということが、確認できる。何でも都合良く仏教と結びつけてはいる傾向もあるが、おおむね納得がいく。日本人に仏教が全面的に受け入れられたのは、仏教伝来以前の日本人の原始的な信仰が、仏教の考え方と通ずるところがあったところによる。「一切衆生悉有仏性」などという言葉は、そのままに原始日本人が抱いていただろう、自然観である。但し、インドやミャンマーの仏教はだいぶ違うようだから、仏教を日本人らしく、上手く取り入れたということでもある。仏教経済学の考え方でなければ、地球は生き延びることが出来ないと安原氏は書いているが、そうまでも思わない。それは、現実社会の仏教が、利他主義を強調する仏教の教義の中で、利己主義が蔓延したかの方に興味がある。

坊主丸儲けなどという言葉があるように、大多数の坊さんはいかに儲けるかに専念している。この点では、商売人以上に熱心である。戒名は院号がつけば、100万円いただきます。どういう情けのないことが宗教であろうか。死者というものを人質に、金儲けに専念しているのが、大半の寺院である。儒教が中国で生まれたように、宗教は逆説的な側面がある。賄賂や悪徳が蔓延しやすい社会であるがゆえに、孔子は儒教の教えを導き出した。仏教が本当のその教えを失ったのは、檀家制度と葬式仏教にある。江戸時代の最大の失敗である。鎖国の中で、宗教をコントロールする難しさがある。氏神様とお寺さんの共存。多分この神仏混合の経過で、思想としての仏教は変貌した。本来の仏教ということになれば、むしろ、ブータンやネパールに学んだ方がいいのではないか。実は仏教の悪いところから、書いてみたのは普通はお寺や仏教の経済となれば、そういうものと見ていると思うからだ。

ブータンの幸福社会論は、まさに仏教から来ている。東郷氏の連載に詳しい。世界が学ぶべき知恵が溢れている。そこに暮らす大多数が幸せと感じている、経済後進国、国民総生産的には貧困な国。豊かで不幸な国、日本では管内閣によって「最小不幸社会」という意味不明の標語が掲げられている。管氏には幸福ということの本当の意味が分からないのだろう。現代経済学では、表面を飾り立てた「虚飾」でしかないような貪欲、浪費、無駄を追求させる。それが資本主義経済の拡大再生産の本質である。物を排除することで本質に近付いてゆく暮らし。寒いから暖房ではなく、寒いならそれを味わう喜び。一枚多く着ることでしのぐ暮らし。小田原の冬なら、やればできるのである。もちろん暖房があればその時は快適である。しかし、寒くても、暑くても、自然に即して、きりっとしてしのいで暮らす喜びもある。

安原和雄氏が構想する仏教経済学の八つのキーワード ―「 いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性」となっている。私なりに解釈すれば、仏教経済学の原点は自給自足ということになる。そしてそのように暮らしを変えてきた。道元の時代の仏教は葬式とは関係が無い。自給自足を基本としている。布施は業である。いただいている命の意味を知るためである。仏教が我関せずで、自分のへそを眺めている間に、社会の方が崩壊している。僧侶である自覚はしている。しかし自己探求、自立本願どころでないというのが、あさましい衆生の焦る気持ちである。自分の悟りなどどうでもいいから、崩壊して行く日本をどうにか食い止めたい。その考えた時、安原氏の考え方は、とても参考になる。

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