金沢大学美術部同窓会

   

金沢に3年ぶりに行ってきた。大学の美術部の同窓会である。自分の原点である。軍隊の馬小屋だった2階のアトリエで、絵を描いていて。帰りに部室の寄ろうかな、誰もいないだろうけど。そんな、40年前とまるで変わらない自分。大学が封鎖されて、授業がなくただただ絵を描いていたころ。なんでお前は絵を描いているのだ。何時も問われていた。こんなときに、なんで絵なぞ描いているのだ。こういう風に問われた答えが、まだ出せない。あの4年間と少しも変わらない、一日を送ってきた。来たというか来てしまった。同窓会に集まるみんなはそれぞれ社会の中で、あの抱えていた思いを消化できたのだろうか。そのことを確認したくて、出かけて見る。それぞれ社会で、責任のある立場を過ごし、定年を迎えるという人が多い。この人は会社は無理だろうと思えた、Fさんは定年まで働いたそうだ。何故会社で働けたのだろうと言われていた。本当に不思議になる。

一番影響を受けたMさん。今でも相変わらず鋭く攻撃的。お前は生きることにルールを作っている。生きるということはそんなものではない、と言われた。久しぶりに会っても、核心を言われる。有難いことである。あの頃、漂っていた『暗い情熱』のような感覚が、生々しく後頭部を覆ってくる。久しぶりの誰ともゆっくり話したいと思いながら、少しも話せない。それでも顔を合わせるだけでも、確認できるものが山ほどある。「ああ笹村か。」「笹村だな。」40年という年月が消えて行く。自分があの頃と同じ所に立ち止まっていることだけはよくわかる。少しは前に進んだのかと思っているのだが、少しも何も変わっていないことを思い知らされる。それはそれで仕方がないことだが。金沢での4年間は美術部での4年間だった。大学に通ったというより、美術部に通ったという4年間だった。

金沢ほど、変わってしまった町は無いだろう。あの頃の金沢はどこかに残っているのか。そう思って探すのだが、どこにもない。1軒2軒の家が残っていたとしても、大きな新しい建物に挟まれて、記憶とは結びつかない。そのままであるはずの武家屋敷だって、まるで違う場所だ。すべてが変わって、大学が無くなって、下宿していたあたりなどは、街そのものが無くなった。記憶だけの金沢。久しぶりにTさんにお会いした。大学の卒業以来である。少しも変わっていない。記憶のままの存在で、恥ずかしいから帰ると言われて帰られたが。そういえば、昔もそうだった。何が恥ずかしいのかは分からないが。恥ずかしいと言えば、わたしなど筆頭ではあるのだが、居直っていて、そのままである。そのままであることが恥ずかしいということなのであろうか。

死んでしまった人もたくさんいる。連絡が取れなくなった人も、沢山いる。当然のことだ。生きている間に顔を合わせておく必要のある人もいる。約束がある。どう生きているのか、野良犬のように、お互いの鼻を合わせて臭いをかぎ合う必要がある。Kさんはダライラマの影響を受けて、チベット難民の救済活動をされていると言われていた。3回ダライラマは金沢に来ていると言われていた。もっとその話を聞きたいと思ったが、その時間も無かった。それぞれが生きているところにもう少し深く入ると、それぞれに変わっている。変わっているのだけれど、やはりKさんはKさんらしく変わっている。みんなにサプリメントを配ってくれた。そういえばKさんは薬学部の人だった。チベット難民にもきっとサプリメントを送りそうだ。ちょっとトンチンカンだが、純粋を貫いたような人だ。

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