久野川の環境調査と小田原市遺跡調査

   

偶然にも二つの調査に関して同じ日となった。偶然に同じ日になったから、思うわけでもなく、とても深い関連がある。小田原の歴史を知る事と、小田原の環境を知る事。この二つの充実があって始めて、小田原で暮らしてゆく方向性が、遠く見渡せるものである。久野川の環境を調べると言う事は、実は山の状態であり、海の状態である。その変化を総合的に見て行く、大きな指標に成ると言う事である。考古学的歴史は、過去その場所に住んでいた人間に出会うことである。例えば、小田原城址の中の、馬屋が発掘調査の発表が、教育委員会の諏訪間順氏からあった。再現できるほど、正確な材料は発掘できなかったと言う事である。学生の頃、金沢城の発掘のアルバイトをしたことを思い出した。発掘された茶碗のかけらの文字一つから、そこでの暮らしの事まで推測できたりする。

発掘では、時代は上の方の地層が新しく、下の方が古いらしい。何故人間は上に上に暮すのかが不思議だった。下に下に掘って暮らしてゆくのなら、考古学的調査は成立しないなー、など、くだらない事を考えた。歴史は埋もれてゆく。洪水があったり、火事があったり、噴火があったり、道が出来たり、埋め立てがあったり、ともかく上の方が新しい。展示の方も今年発掘された多数の遺物が並んだ。壮観なものである。今回は二つの大きな材料があった。小田原で埴輪の初めての発見があった。これが展示されていた。写真撮影禁止。意味は理解できなかったのだが、それほど重要。前方後円墳の小田原での初めての存在確認に繋がる可能性もあるそうだ。もう一つが、鉄鋳造跡地の確認。鉄の鋳造がどの時代にどの程度の規模で行われていたのかに興味がある。聞いた所では、日本たばこの所には、その昔、鉄のたたら鋳造跡があったとの言い伝えがある。軍需工場になった時掘り下げたので、全てなくなった、らしい。掘り下げる文化は歴史を消滅させる。馬屋曲輪も掘り下げる文化に消された。

午前中には久野川の環境調査をどの方向で行うか、先ず歩いてみよう。という集まりが行われた。雨の上がった日曜日、洗濯日和、川は泡立っていた。これは上流に行っても続いた。「生活雑排水の流入をどう考えるか。」坊所川と久野川との出会い当りは、重要なポイントに見えた。川沿いに放棄農地が広がり始めている。南の荻窪側の丘陵の管理と、湧水の関係。「川へ流入する、湧水地点の調査。」坊所川上流部分の土砂の堆積の様子やごみの散乱。車の立ち入り可能地点の精査。久野川葉舟原辺り3面張り河岸と、土砂の堆積。川の両側の荒れた林地。「所有者の確認」これは行政の役割。峰自然園は久野川の環境ポイントとして、重要。この地点でも、案外の水質レベルであった。和留沢集落の水神のある地点はさすがに清流。ここでの大腸菌の検出の理由確認。田んぼに入る水路に生活排水が流入している地点が多い。環境調査の前段として、環境聞き取り調査の必要性。

来年の1月30日には又かもめ図書館で、小田原の古墳に関する、シンポジュームが行われる。兼ねてより、小田原の歴史が江戸時代に偏重される傾向が残念であった。小田原を考える上で、重要な事は、ここに人が住み始めた初期の状態を考えることだと思って居る。北条氏も〇〇家も存在しない時代である。自然の状態と密接に関連して人が暮らし始めた頃。縄文の西の端の文化地点として人が暮す。その後弥生文化の関東の窓口として、存在していたようだ。こうした文化の、人の動きの要として、存在して来た歴史は、今に続いている。小田原が次の時代の、「のろし」になる可能性は高い。それは小田原に引き売り業が何故繁昌するのか。こう言う事にも繋がっていると思っている。久野川の環境が守られるような意識に変われば、小田原は次の時代の「しるべ」になるだろう。

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