冤罪の恐怖
足利事件の濡れ衣を着せられた、菅谷さんが釈放された。辛かったろう。苦しかったろう。テレビのニュース画面に映る姿は、警察、検察官を許しがたいと言われていた。人生を返して欲しいと言われていた。いたたまれない冤罪が繰り返されている。その原因は警察、検察の自白を証拠の主とする考え方にある。アメリカでは報道が、延々と冤罪事件の洗い直しを続けている。驚くほどの数、無数ではないかと思われるほどの、冤罪事件が存在する。そのテレビでは250人に及ぶ人が冤罪で死刑に成ったのではないかと推定していた。これほどの恐怖はあるだろうか。日本ではないと、過去絶対になかったと言えるだろうか。今後、そうした国家による殺人が起きないといえるだろうか。「冤罪に巻き込まれる」のではないかという、不安を常々かかえている。そして、やりもしなかった犯罪を、自白している自分がいる。
ドフトエフスキー的世界。自白というものがいかに作られていくか。警察は犯人と思い込んで逮捕するに違いない。その線から、犯人とされた人間を追い込んでゆく。専門の警察官であれば、自白を誘導することなど、いとも簡単なことであろう。絶対に自白しない人間も居る。異常な犯罪者に多く存在する可能性がある。むしろ特殊な精神構造の人間である。自白だけでは、証拠の価値は低い。自白主義を防ぐ一番の方法は、尋問の全過程を録音録画することである。早速法務大臣が全過程録画はしないことを、答えている。理由は、捜査の障害に成るとしている。つまり自白をしなく成るというのだ。もう一つの理由は報復の可能性。暴力団事件などで、誰の指示だったかを自白したことが、映像として残ることでは捜査に支障がきたす。100人の犯罪者を逃すとしても、一人の冤罪犯を作ってはならない。古くは拷問による自白が、普通の事であった。魔女裁判。魔女を作るために行う裁判。
志布志事件を、鳩山邦夫元法務大臣は「冤罪事件と呼ぶべきではない」と発言した。何か意味不明の弁解をしていたが、その背景にあるのが、取調べの全過程の録画録音への消極的姿勢である。志布志事件のように、全くなかった事件を警察検察で、でっち上げてしまう、政治的国策捜査がある。最近では小沢元民主党代表に対する、西松事件。背景にある主眼は、政治的意図である。収支報告書に虚偽を記載した罪で、長期拘留し小沢元代表の犯罪性を暴く、自白を供与したと思われる。結果何も出なかった。この過程を全て可視化し、公表したらいい。国策捜査という物の意味がわかるはずだ。時の権力に不都合なものを抹殺するために、冤罪を作り上げることがある。証拠不十分であっても、その政治的効果は充分果されることになる。
足利事件で冤罪が起きてしまった背景は、連続幼女殺人事件に対する、地域の恐怖と警察自身の焦りがあった。何故、犯人が捕まらないのか。この世間の怒りが警察の機能である「安全に暮すための維持能力」への疑念を生じかねない。その焦りが、無理な犯人逮捕につながる。例えば、和歌山カレー事件では、ワイドショウーマスコミに寄れば、犯人と目される人間は、早くから特定されていた。逮捕できるかどうかは、警察の証拠を集める能力だけのように見えてきてしまう。ロス疑惑も同様の経過。最近の犯罪者は、わざわざテレビに露出することを望む者も居る。出演料まで請求して、記者会見を続けた殺人容疑者も居た。警察にしてみれば、常に挑発されているような状況。こうした状況で、裁判員制度が施行される。一部録画録音では、更なる冤罪を生む可能性が高まる。全過程を録画録音して行くことが必要になる。