小さいことは迷惑か

   

市町村合併が経済危機が現実となり、いよいよ小田原でも取りざたされている。小さいほうがいいことがある。大きく合併した場合、取り残される小さいことのよさをどう維持できるのだろうか。日本一小さい行政は青ヶ島の人口181人。八丈島との合併と言う話も出た事はあるそうだが、何としても独立してやっていこうと言う事らしい。江戸時代この島の人口は700人とも言われ、今の4倍の人が自立して暮らす事が出来た。所が現代のこの島では村税が村全体の収入の4%弱である。地方交付税、国の交付金、都からの支出金等でほとんどがまかなわれている。仕事の方も港湾整備のような公共事業が継続して行われている。何故、青ヶ島を例に挙げるかといえば、ここが日本の一つの典型的な事例だと思うからだ。他所からの税金の投入がない限り、成立しない地域と言う事。今苦境に立つ地方行政においては、国の税に対する分配がおかしいと、盛んに主張する。この大半が筋違いだ。宮崎県が経済独立すれば、間違いなく現在よりも財政困難に陥る。

これは日本の産業構造が、大都市集中になっているからだ。青ヶ島の一次産業による収入は4600万程度。一次産業従事者が一割程度。大雑把過ぎるが、全体で5億円ぐらいの生産が想定される。そして島の運営にかかる費用は、11億が村の歳出である。生産している総額の、倍以上が行政支出である。青ヶ島は極端であるかもしれないが、多くの地方がこうした状況になりかかっている。日本の平均的な暮らし、憲法で言う所の『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』具体的に言えば、生活保護費によって可能な暮らしのレベルが、地方によっては経済的に独立したなら、不可能になってきている。産業的に空洞化している地方。もちろん地方が子供の教育などを担い、大都市というものが成立していると言う構図が背景には存在する。

小さいから成り立つ、好例が自然養鶏である。あるいは兼業農業である。出稼ぎ農業である。専業化や、規模拡大に経済の合理性がない。小さいからできることがある。暮らしに密着したことはおおよそそう言う事だろう。自然養鶏では田んぼや畑の肥料となる鶏糞の生産も、大規模に成れば鶏糞は採算に合わないものになる。曲がったキュウリも家で食べる分には問題がないが、流通に乗せるとなれば、ゴミと化す。生産調整と言って、できたキャベツを捨てていたり、作らなければお金になる田んぼがあったりと。大きくなれば不合理になることになることがある。そして、大きい所は、小さいことを迷惑と呼ぶ。国にいたっては、町村合併すれば、補充金を出すと、誘導までする。本当に小さいことは迷惑なことなのだろうか。小さいながら、大切なことを失わない。そうした精神が足柄地域が一つの行政になったとき、生かされるだろうか。瀬戸屋敷を大切にするお年寄りの集まりは、開成町と言う単位の細やかさが背景だと思うのだが。

地域にある暮らしの細部を大切にする。行政単位が大きくなることで、失われたり、取り残されることが必ずでてくる。もちろん、大きくするメリットはある。大きくした方がいいことは大きくする。事業ごとに広域連合を結成して、合理性を求める。大きく合併する前に、小さい事を大切にする体制を作ることだ。大きくするならそれが、出来てからの事だ。小田原では地域の位置づけも形式だけで、農業地帯であるべき地域が、住宅開発がされ、農業行為まで迷惑行為と考える住民が増えている。こうした事は、大きくなればいよいよ紛れてしまい、おかしなことになる。いつの時代も暮らしの大きさは変わらない。1人の暮らしが大切にされること、この視点がグローバリズムの崩壊後の方向だろう。生きることのどの部分が大切なのか。大きな車を乗り回し、飛行機で世界を飛び回り、三ツ星レストランで美食するような暮らしが、目標ではない。一日一日を深く生きるためには、小さい目の前の事が大切になる。

 - 地域