水彩人10回展
水彩人展の作品が描き終わった。M150号を5枚である。喜びのようなものを描いた。私自身が生きている喜びのようなものを、絵にしたかった。秋になって農の会の友人の所で、相次いで3人の子供が生まれた。新しい生命に出会って、つないで行くものの事を思うようになった。来年還暦である。一周したと言う事あろう。そうした気持ちが強まる所に新しい命である。それはたまたま身近で起こったことで、心底喜ばしい感情に満ちた。そうした喜ばしい気持ちを絵にしてみたくなった。始めのうちは、そうした気持ちで描いているのだから、自然そういう風に成るという具合であった。所が描き続けている内に、私の絵においての、メッセージのようなものを考えていた。自分の子供の頃の喜びに満ちた明るさのようなものは何だったんだろうと。思い出す感情はまばゆいようなものである。
たぶん私が愛情に満たされていたと言う事だろう。泣いてばかりいたらしいが、悲しみの様な感覚は少しも残っていない。明るく、暖かく、耀いた、光に満ちた空間である。そのことを描きとめてみたくなった。そのことが意味があるとか、意味がないとか、そう言う事は判らないが、きわめて個人的な感情を個人的に書き留めたくなった。この感情は、たぶん「共感」と言うかたちで育てられたような気がする。この花は美しい、と言う気持ちは学んだものである。いつの間にやら刷り込まれていたものである。そうやって人間としての感性が、育まれる。私が美しい初日の出だ。と思うのも実は文化的伝承だろう。桜が美しい。桜の下には腐った死体が埋められている。幸せな家庭は軒から火が燃え上がっている。ふとそう思うときがあるのは、文化的伝承の感覚が育っているのだろう。
水彩人の共感によって10年間育てられたもの、これは大きなものだった。10年前少しも感じられなかったものが、今美として認識できる。49歳の芸術の全てを理解したような気分の、傲慢な自分が、いかに浅はかな存在であったかと言う事が今になって良く分かる。むしろ自分が出来ない世界が以下に広がっているのかが判る。それだから、この後自分の出来ることが極めて限定されたものであることも、少しわかってきた。この10年は絵画芸術は表現手段である、と言う認識が薄れてきた、時間でもあった。絵画的表現が社会的存在の意義が失われている、事実の確認。もちろんいつの時代も、社会は芸術に好意的であろう訳がない。商業絵画の時代。投資価値としての絵画。貴金属や宝石のように、ものとしての投機的価値が絵画にあるとして、一番、解るはずの絵を描き続けてきた者には見えない価値観。そうしたうその蔓延。
反動としての、内側に向いた私的世界での制作。公募展に集う膨大な作品群への、興味の喪失。他人の絵画への関心の喪失。そうした中で、保たれたものが、唯一水彩人の仲間の絵であったかもしれない。私の美意識が、幼児の私の周辺にいた、家族を中心にした共感の世界によって育てられたものが、基盤であったように、水彩人の本音の絵画への共感が、唯一繋ぎとめてくれたような気がする。それは、学ぶと言う事が、主張すると言う事。指導すると言うような立場で、一緒に描いたもの、そして一生懸命語ったことが、繋ぎとめる大きな要素であったと思う。水彩人も約束の10年が過ぎた。この先どう変わるのかは、まったくの未知である。ただ、今の絵画認識に到る大きな力が、水彩人によってもらったものであることは判る。