絵を書くことの変貌
ある美術評論家が美術界に巨匠が居なくなった話を書いていた。それについては少しの異議もない。確かに美術界には大家というか、大物などまったく居ない。その評論家は、そのことを絵画の衰退と同じことと捉えている。美術評論家の見方だなぁーと思う。たぶん巨匠の美術史だけが美術史で、大多数の大衆の行う美術的行為の方は、今のところ美術の枠外と言う事なのだろう。これは歴史を武将とか政治の成り行きを歴史と考えていた、古い見方と同じだ。私は20世紀の美術を商業美術化の時代と名付けている。美術作品が金融商品化した時代という意味だ。そして21世紀を創作者の時代と見ている。芸術の大衆化というほうが普通かもしれない。が、芸術の意味の方が変貌して、関わるもの等しく創作する側に回ったという考えである。だから、美術評論家が巨匠が居なくなったというのは、20世紀的評論と言う事、あるいは19世紀的評論になろうか。大家の名作よりも自分の描く絵画の意味の方が問題である。
20世紀の美術の商業化の時代という意味は、美術が制作者から考えたり、その芸術的意味から考えるより、取引する側の見方のほうが重くなった時代と言う事だ。制作者にはそれなりの哲学、思想はある。それを受け止めたり、議論したりするより、その絵画が世間で注目を浴びるかどうかが、絵画評論の中心になった。先見の明があったとか、持ち上げるとか。そうしたことが美術雑誌の中心的話題だった。ニューヨークで活躍しているとか、パリの個展が評判だとか、情報を先取りして紹介することが、評論の役目になっていた。多くの興味の本音はどの作家が先物買いできるかを知りたがる読者。そうした経済の流れ、投機の流れに巻き込まれ、芸術としての絵画の意味は忘れられた。19世紀こそ、いかにも絵画が芸術として観られた時代であろう。それはそれ以前の長い、装飾としての時代から、わきあがった美術の変貌だった。
21世紀は創作者の時代。つまり描く行為に意味を見る。人間は何より生きること、生きることをより深く味わうこと。その為に絵を描くことが関わる時代。19世紀の芸術としての表現の時代と、少し似ているが、芸術作品の価値から、自己存在の価値を見つけようとしたのが19世紀美術。素晴しい価値ある絵画を制作する存在であるから、自己存在が確認できる。しかし、21世紀の創作者は創作した絵画の価値に客観性を求めない。もちろんいつの時代も、前の時代を引きずるものだから、相変わらず、商業的評価を求めて描く人も多数を占める。あるいは19世紀的に大家になって価値ある絵画を制作する社会的目的性を引きずる者も居る。しかし、純粋に絵画制作に没頭する者を見ていると、まったく製作行為がその人の生き方であるという人が多数を占め始めている。
簡単に言ってしまえば、絵画の趣味化の時代でも良い。他者から見れば盆栽いじりであっても、国風盆栽展などに行けば、もう人生をかけている作品としかいえない姿に出会う。趣味が嵩じてというか、他人にはどうでもいいのだが、本人にとっては命がけという、笑うに笑えないような趣味の世界に絵画が入っている。良い趣味ですねー。などと言われると、しっくりしていなかったが、最近は自身で趣味そのものだと思えてきた。客観的に見て、それしか居場所がないという事もあるが、どうもそれの方が、自分の制作には相応しい。千日回峰行だって、趣味といえば趣味だ。何の生産性もない。修行などという物はおおよそそういうものだ。もちろん絵を描くと言う事は、楽しいことだから、苦行的修行とは程遠いが、これはこれでやりようだと思っている。