栢山田植え歌
足柄地域には 下中座の人形浄瑠璃・寿獅子舞・鹿島踊り・栢山田植歌・箱根馬子唄・山王大漁木遣唄・小田原囃子 ・足柄ささら踊・足柄囃子・相模人形芝居・吉浜の鹿島踊り・世附の百万遍念仏・山北のお峯入り等が残っている。どの民俗芸能も保存会が地道に活動を続けている。一体、保存会の実情はどうなっているのか、気になっていた。
農業を行う者として、田植え歌ぐらい歌えなくてはならないと思い、2年間練習に入れていただいた。それでも良く歌えないのだから、記憶力の悪さと、音感のひどさはちょっとどうしようもないのだが、古い足柄地域の空気を少し知る事が出来た。この栢山田植え歌の保存会を続けてきた一人が、栢山の日比野さんだ。この方の一人の努力が、今か山田植え歌を残していると思う。
昨日は、日比野さんに保存会の活動について、話を伺いに行ってきた。改めて伺ってみると、折に触れて聞いていた事とは少し違って、面白かった。栢山と言えば当然、二宮尊徳のことが関連する。報徳祭の時にも田植え歌を演ずるそうだ。どの保存会の活動も、保存の為に演ずると言う事になる。そのために、少しづつ演出が入り、舞台で見栄えのするように変化してゆくそうだ。それでも、二宮尊徳を知るには栢山田植え歌ははずせないものだ。
古い足柄地域の農村の実際を知るというのは、本当は困難な事だ。例えば、今の時代の小田原の駅前商店街の実際はどうか。これを一くくりにするのは難しい。それを足柄の昔はこうだったなどと、とても言えるものではない。しかし、その時代時代の人の暮し、心の奥底を知る。そのの学問が柳田民俗学だ。本能寺の変は、何年にあり、誰が誰を殺した。こういうことは庶民の暮らしの歴史からしてみれば、大したことではない。
二宮尊徳の農村改革の背景にあるもの、を大変複雑に受け止めている。農村を飢饉から救った。などとパターンで捉えると、大きな誤解をする。その事は、もう少し調べて、別の機会に書くとして、今はその背景にあった暮らしの空気だ。これが栢山田植え歌にあると言う事。それがこの歌をなんとしても保存しなければならない、目的だ。
この歌は、何度も消えかかったらしい。田植えが機械化され、田植えで歌を歌わなく成ったので、消えるのもいいじゃないか。どうもそうではない。田の草取りの歌はすでに消えた。籾摺り歌も消えた。除草剤があっても草は生えるのだから、草取り歌は残って良さそうだけれど、先に消えた。田んぼを行う心が変わった。田んぼは、日本人の根源に結びつくものだ。例えば、日本人の所作、身のこなしに、田植えの動作、重心の落とし方に影響している、という。
昨日の話で一番驚いた事は、行政の補助が、ここ10年さまざまな事で、減ってきたそうだ。どの活動も経済的に苦しいところにあるらしい。栢山田植え歌では、地域の活動への補助と言う事で、栢山の自治会から支援がされているそうだ。にもかかわらず、小田原市は特段の支援をしないそうだ。民俗芸能の持つ市民にとっての意味を、きちっと押さえていないから、お金がなくなれば最初に削られてしまったのだ。
それでも心ある皆さんが、大変な苦労をしながら活動を続けてくださっている。お陰で、生きた歌として、「栢山田植え歌」が歌い続けられている。地元2校の小学校では、学校田の田植えのときには、保存会の皆さんに歌ってもらっている。それなら、せめて音楽の事業では歌うようにして貰いたい。