「心の声」を聞け

      2025/06/11

 

アンパンマンのテーマは「心の声を聞け」である。朝ドラを見るので、ついつい、やなせたかしさんのことを思い出す。思い出すのはその歌詞なのだ。それは願いなのだろう。心の声は簡単のようで難しい。祖父笹村良水は和歌の結社を作り、大正から昭和にかけて「心の声」という機関誌を出していた。1000部以上を発送していたと言うからそれなりの規模の組織だったのだと思う。

心の声を聞くというのは、絵を描く上でも同じだ。自分とは何かと言うことが、『私絵画」の基本姿勢である。自分の声、自分の中にある本当の思い。その思いを発する自分を把握することが、表現の大本にある。それを心の声といったのだろう。芸術という物は自己表現以外の何物でも無い。

古今和歌集冒頭の言葉「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと・わざしげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは歌なり」

あまりに見事に表現の意味を語っていて、他に付け足すところはない。植物の生命力を通して、和歌の意味を示そうとしたところが、日本的な感じ方の原点があるように思う。心にある種を茂らせること。生きとし生けるもの、すべてが歌を歌っている。鳥が歌うように、絵が描けるようになれと言うことだろう。

自然の木々や鳥のように、思うままの表現に至ることが出来れば、それでいいと言っている。翻って考えれば、和歌は蛙の声と何ら変わらない。とも言っている。そして、和歌の役割を最後に示している。和歌の力を信じている。言葉の力が信じられた時代。山の上で空に向かい和歌を奏上した。あまつちに聞こえるように。

国家が和歌集を出すという意味は、国の文化を示し、国の方角を示そうとしたのだろう。何と優雅なせいじであることか。言の葉の力を信じられた時代。言葉に出すことの意味が突き詰められ、歌というものが生まれ、和歌というものに集約されてゆく。

やなせたかしの言葉「心で聴くんです。心で見て、心で聴けば、見えない本当のことがみえてくるんだってーーーアンパンマン」柳瀬隆氏は135曲の作詞をしている。いずみたくさん作曲が多い。38曲がもある。アニメや漫画の作者としてより、作詞家として評価できる人だ。そのほぼすべてが、励ましの声である。応援の心の声である。

心の声を歌にしている。残念なことに、あの絵では心の声というところまで行っていない。何の前提もない人が、アンパンマンの絵を見て、心の声が聞こえてくるだろうか。私には白土三平が良かった。ちばあきおが好きだった。アンパンマンの絵では、心の声が聞こえてこなかった。しかし、やなせさんの歌詞は手のひらを太陽には聞こえてきた。

では、やなせさんの言う「こころ」とは何かである。性善説と言うことなのだろうか。ヒットラーだって心の声を聞いてしまったのだろう。トランプのように心の声に従い、地獄に導いてしまう悪魔のような人は居る。しかも心の声はその自分の中にある悪魔の声にも耳を傾けよ。と言うことなのだろうか。

「こころ」をたどれば「じぶん」の解明になる。正義のアンパンマンだって、時と場合によっては迷惑かもしれない。正義も複雑怪奇である。鬼畜米英と正義を叫んだ時代だってあった。自己の確立である。どんな自己でも良い訳ではない。正しい自己を確立する必要がある。

正しい自己とは何か。正しく心を導くものは何か。幼児教育であるというのが、やなせさんが自費で赤字覚悟で「詩とメルヘン」を作り続けた理由だろう。大学生のころできた雑誌である。その意気に感じて、詩とメルヘンは良く買っていた。しかし、その詩の質は徐々に低下したように感じた。

自分にたどり着き、心の声を聞けばそれでいいと言うことにはならない。朝ドラでは自分が子供時代から愛した、将来結婚することになる「のぶさん」が軍国夫人に変貌してしまう。そして他の人と結婚をしてしまう。東京でデザイナーの勉強をしている、やなせさんの心の声は何を叫んでいるのだろうか。(これはあくまで虚構の話)

この矛盾のような中にやなせさんの心の声は聞けそうだ。軍国夫人であり、子供達に軍国主義を教育し、戦場に送り込む他人の奥さんである「のぶさん」に対しての、思いが断ちきれない。否定ができない。やなせさんの優柔不断な自己矛盾。ここでの心の声はどこにもやりばがない。

やなせさんの、やさしさが災いする。軍国主義が平和主義を凌駕してしまうように、やさしい人間性は、強い人間性に対して、黙って見つめる傍観者になってしまう。のぶさんに言うべき言葉はあったはずだ。ところが、何も言えずに傍観者となってしまう。やさしさや思いやりは強いものに押し切られる。

これが人間だと言えばそうである。理想主義のアンパンマンはそうではない。そでも真っ赤な血潮が、流れて生きているだ、友達なんだ。と叫んでいる。果たしてそうなのだろうか。のぶさんのおくにある「こころのこえ」を聞いていると言うことなのだろうか。しかし、のぶさんの行為が許せるのだろうか。

まあお話だからそれでいいとして、やなせたかしさんのアンパンマンのアニメは消えて行くとしても、あの歌詩は残って行き、人のこころを打ち続けるはずだ。たぶん、この意見は全く受け入れられないだろう。アンパンマンの評価は世間的には高いらしい。悪く言うのは私の偏見と言うことだろう。

アンパンマンは2,3歳でも、理解できる乳幼児向け作品。と書かれていた物があった。なるほどそれならば分かる。私にはあまり子供時代という物がなかった。子供の頃から大人のまねをしていたから、子供向きと言うことは嫌っていた。そもそも芸術に子供向きなど無い。

芸術はわかりやすいわけではない。常に難解なのだ。見る側にそれだけの力がなければ見ることができない。だから、その時代の文化レベルに応じて、芸術は存在する。良い時代には優れた芸術が存在し、資本主義末期の商業主義の時代には、貧相な商品としての芸術のまがい物だけが存在する。

芸術の声は、心の声は耳を澄まさなければ聞こえてこない。この悲惨な文化の時代にも、必ず芸術は潜んでいる。あまりに騒がしい時代なので、かすかな声である心の声は、世間に響き渡るわけではない。凱旋車のけたたましい声は、右翼の心の声である。がなり立てて少しも伝わらない。

耳を澄まそうではないか。心の声を静かに聞こうではないか。

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