絵を描くことは置き換えるということ

芸術としての絵画が衰退の時代にあると言うことは、大方の人が感じていると思う。それは絵画が社会に影響を与えることができなくなったと言うことでわかる。現代絵画と言われるものであっても、社会から遊離して、極めて個人的な表現になっている。だいたいの絵画は商業絵画系と言って良いのだろう。
公的社会は一応芸術に理解のありそうな所を示さなければならないとでも言うように、公立の現代美術館というものは限りなくあるが、そういう所で表現された作品が社会に影響があるとはみえない。すぐれた社会は芸術に理解があると見栄を張っていると言うことぐらいだ。
音楽ではクラシック音楽という過去の音楽を演奏する分野がある。そして、現代音楽というものもあるが、それもクラシックのジャンルに入れられている。そして社会で一番音楽としていけ入れられているポピュラーと言うジャンルもある。
音楽のことはよく分からないが、八重山の民謡も音楽である。やはり唄うことの方が聞いているより、ずっとおもしろい。下手も良いところだろうが、唄うことの喜びは聞いているのとは違う。絵も描くことの充実感と、喜びは深いと言うことだろう。
芸術が無くなったわけではない。様々な表現が社会や人間に影響は与え続けている。映像やインターネットによる社会への影響というものは計り知れないものだ。その中に芸術が存在しているのかもしれない。どんな表現がその時代の人間に影響を与えたのかは、100年経って振り返れば分かることだろう。
そういう時代の中で絵を描いている。芸術としての絵画が衰退して行く時代に絵を描いている。それは何を意味するかと言えば、同時代に自分を刺激する絵画が極めて少ないと言うことだろう。自分のみで絵を探さなければ、ならないと言うことである。同時代の絵画の方法がすべて無意味だという所からしか始まらないような気がしている。
先生がいてその人に芸術を教われば何者かが見つかるというようなことは間違っても無いと言うことだ。自分自身が探る以外に、何の道しるべもない分野になったと言うことのようだ。こんな時代でも絵らしきものを描いて、文化勲章を貰う人も居るわけだが、そういう絵画はむしろ芸術では無いという証拠のような気さえする。
それくらい、時代と絵画芸術の関係は変化をしてしまった。中川一政氏は芸術としての絵画を描いていた。たぶん最後の人のような気がする。明治以降の日本の西欧絵画の到達点である。社会も私個人もそこにある芸術観や美学に影響を受け、道しるべとして進んで居たのだと思う。
ところがその到達点は人間哲学主義と言うか禅的絵画のように見える。禅に次なるものがないように、展開というものがない。社会的に見ると継続できなかった。今あるものは過去の大画家のものまねであるが、もし絵画が描くという個人のものになったとすれば、展開とか、次への創造性というような視点がおかしいのかもしれない。
その理由は絵画が表現芸術では無く、芸術的な行為に変わったからだと思う。重要なことはその人がどう生きるかである。人間がどのように生きるかと言うことに進歩など無い。個人主義の時代が実際化したのだろう。社会に影響を与えるというような芸術では無く、個人が生きる充実として絵画を描くと言うことになる。
社会としては全くの無駄である。無意味な世界である。社会がもしそのものから得るものがあるとしたら、千日回峰行の大阿闍梨の、神聖な努力に対しての渇仰くらいのことである。しかし回峰行ならば分りやすい努力だが、絵を描くことは社会一般には、修行どころか良いご趣味という理解である。
このだめ扱いを当然として受けれねばならない。無駄な日々のなかに、自分の生きるを煮詰めている。生涯をらんちゅうの作出にかけた江戸の趣味人とまるで同じである。生きると言うことはその人が決めて、煮つめれば良いだけことである。
遠回しで、いつものぐるぐる巡りで、なかなか本筋には入れないのだが、思い切って角度を変えて具体的なことで考えてみる。
絵を描くことは置き換えるということだ。描いている実際は、見ている何かを画面で再現しようとしている。それは平面だし、大きさも違うから、描く時には線と色で置き換えて、表現しようとするなにものかに近づけようとする。もちろん結果は大きく違う。
結果的には大いに違うのであるが、見ているところのわずかな何かを画面の上で、置き換えてようとしている事は確かだ。その置き換え方が絵を描くと言うことなのかもしれない。そのものが発している何かを、眼はとらえる。何をとらえたかで絵になるものはまるで違ってくる。
具体的な意味の説明もあれば、その場の印象を色に置き換えて居ると言うこともある。置き換え方は人それぞれであるし、例えばハイパーレアリズム絵画であったとしてもやはり平面に置き換えているとも言える。置き換え方がその人の絵画法と言うことになる事は確かだ。
何をどう置き換えたのか。こう考えると、上手に置き換えようが、下手に置き換えようが、同じことである。問題は置き換え方に意味があるかどうかなのだろう。置き換えるためにはその人の見方、見え方というものが明確出なければならない。
重要なことは置き換え方では無く、見方、見え方のほうになる。どのように見えているかが、はっきりしないのが普通である。はっきりしないがなんとなく、この方角なのかという当て推量で、描きながら試行錯誤をして、描くことで何かわずかなヒントを得ている。
なんとなく見えているものは、置き換え方も当然漠然とした置き換え方になる。例えば木であれば、緑に置き換えておしまいと言うことになる。私はこの木をこのように見たという事まで示すには、置き換え方がそれは難しいものになる。
ここに絵を描くと言うことが存在するのだろう。絵の難しさもここにあるのだろう。見えているのに置き換えることが出来ない。大抵のことはそうだ。仕方がなく、あれこれ迫ろうとしている内に、なんとなく置き換えられたかもしれないと言う錯覚のようなこともある。
そうした描く行為は、無意識で行っている。ある意味意識的に行うことが出来ない。描く行為は描く筆に自分がなりきるような状態だから、頭で考えることは出来ない。自分の名前を書いたとしてもその字を間違えてしまう。
脳の中の記憶のサイクルと別なところで描いている。自分の名前を書くとしても、まず下書きをして、その上で笹と書かなければ、笹の字がどんな形だったかが分からない。大げさでいうのでなく、この感じが絵を描く全体を覆っている。
木を描くとしても木という字が書けないのと同じで、木の形を違う脳で見て、絵にしている。この違う脳がどのくらい自分という本質に近づいているのかは分からない。ただ、禅の境地に近いと言うことは予感している。
動禅をしていると、完全に手順を忘れている。忘れているけれど、忘れたまま何かに応じて進んで行く。違った手順に入り込むこともあるが、それはそれでかまわない。この記憶のサイクルとは別の所の空白領域のようなものに入り込んで絵を描いているような気がする。
私絵画と名付けた芸術としての絵画。前段と後段とでつじつまは合わないが、つじつまを合わせてもしょうが無いし、こんな事を今は考えていると言うことだ。