水彩紙のことあれこれ

   

欠ノ上田んぼの柿の実

 水彩画を描くうえで、紙の選び方は重要になる。できる限り正確に想像して、制作上のことを書いてみようと思う。どのくらい重要かと言えば、大したことではないと言えばいえる。重要と言った傍からおかしいのだが、絵を描くうえではその両方が本音なのだ。どんな紙でも同じだと思う日もあれば、やっぱり紙が重要だと思う日がある。

 本来の水彩紙というものは、ヨーロッパで伝統的に作られてきた手漉きの紙である。当たり前のことで、100年前は紙はすべて手漉きだったのだ。手漉きだと紙は大いに違ってくる。イタリアーーファブリアーノ、フランスーーアルシェ、イギリスーーワットマン、とヨーロッパには歴史的に評価されてきた手漉きの水彩紙がある。

 昔の水彩紙に関する使い勝手は手漉き水彩紙のことなのだ。今の機械製造の紙はまた別の話と考えた方がいい。もちろん今でも手漉きの紙もあるが、紙自体が作品と言えるほどの価格になっている。それは仕方がないことで、それくらい紙漉きのための環境は厳しい。

 MO紙というものを越前和紙の方が作られた。日本の版画は世界的に評価されたものだから、版画用の紙と言う方が一般的な理解かもしれないが、戦時中手に入らなくなった水彩紙の代わりに作られた水彩画用の紙である。私も以前この紙で時々描いたのだが、目がないので描きずらいという感じがして、この紙を突き詰めるまで描かないで終わった。

 沖茂八さんが研究・開発した国内初の和紙画用紙がMO紙。沖茂八さんが亡くなった後、三代目の沖桂司さんが漉いていたとある。今は桂司さんも亡くなられて紙そのものが失われた。小川町でも水彩画用紙が漉かれていた。しばらく試してみたがやはり使えなかった。今はこの紙もないのかもしれない。

 日本でも戦時中から手漉き水彩紙は作られたのだが、水準には達しないまま今に至り失われたのではないか。和紙の手漉き方法と水彩紙の制作方法は、全く違うので紙に凸凹の目ができないのだ。紙めは紙の水を切る時に、毛布に挟んで圧力をかけるときにできる。

 和紙は圧力をかけるようなことはない自然乾燥である。いずれにしてもそうした手漉きの水彩紙はもう例外というほどのものになっている。機械製造が始まる。機械製造の紙はそこそこ使えるものである。紙めも様々あり問題がない。問題は紙の材料にある。後で変色する紙もある。

 紙は太陽に充ててあしかめた方がいい。重ねてずらし、1週間太陽に充てて変化の少ないものを使う。悪い紙は1週間で日の当たらなかったところとの境にはっきりとした線が出来る。この紙色の変化は後では取り返しがつかないので、使わないようにしなければならない。

 水彩絵の具の方は最近は日本の絵の具もヨーロッパの絵の具も大差ないものになったが、紙の方も機械製造になってから日本のどこの紙もそれなりに使えるものになった。本当はラグで作られた紙があれば、良いのだが無いものねだりになる。こっとん100%がマシである。

 同じ真似でもインドの手漉き水彩紙は素晴らしいものがある。これは今でもラグで作る手漉きの紙があるようだ。また紙舗直に行って手に入れてみたい。日本には日本画を描く、最高水準の和紙があるにもかかわらず本格的な紙はついに出てこなかった。これは残念だが、日本の水彩画の水準の問題なのだろう。

 紙は文化を受け継ぐ。和紙は日本的な感触がある。と言ってもわかりにくいことだが、滲み具合や色の乗りなどにいかにも日本的な感性を感じる。このことは実に不思議なことだと思う。ファブリアーノがイタリア的で、アルシュがフランス的だと感じる。紙は文化的な産物だと思うしかない。ファブリアーノの紙はダビンチが対象だし、アルシュであればモネやボナールが対象である。

 海外に素晴らしい水彩紙があって、日本で作るまでもないのかもしれないが、日本で工業的に作られている水彩紙というものはある。その水彩紙がラグで作られたものなどあるはずもない。水彩紙はラグの問題があったのだ。ラグは紙の材料としての命である。

 ラグとはシーツのような綿の古布を叩き潰し砕いて、繊維に戻したもののことだ。これが水彩紙の原料になった。今ではラグを使うような紙はどこにもないのではないか。コットを使った紙をラグと称することがあるので不明だ。インドにはまだラグを使った紙があるらしい。

 インドならあるかもしれないと思う。インドの文化は独特なもので、インディアンペーパーと言えば辞書の薄い紙のことだ。手すきの紙の伝統も深く、素晴らしい水彩紙がインドには存在した。と言っても私が購入したのはもう30年以上前のことで、紙舗直でのことだ。地下鉄の千石の駅前にあるのですぐにわかる。

 紙舗直でインドから取り寄せてくれたのだ。この紙は個性がある。その増え幾らでも使いこめる幅も持っている。手すきなのだが、これほど厚い紙は見たこともない。30年経ってますます使いやすくなっている。紙は作られてから時間が経過して使い勝手が良くなる。上手く保存しておけば、200年してからの方がいい紙になっている。

 紙は変わる。特に手すきの紙の世界は様変わりしている。多くの紙やさんが廃業された。日本画用の特別な和紙は今でも大切に作られているが、手すきの水彩紙は多分世界的に苦しいところにあるのだろう。ラグが簡単には手に入らないという事が一番の問題らしい。

 化学繊維が混じっていない綿布というものを集めるのが難しいらしい。いくらかでも化学繊維が混じればおかしな紙になってしまう。良く実情は知らないので想像だけのことだが。そこで今ではコットン100%が良い紙というアピールになった。ラグの紙からバージンコットンの紙に変えた時は違和感があったが今は慣れた。

 良い紙とは良い絵が描ける紙である。良い絵とは自分の世界観が現れた絵である。人の世界に至るためには試行錯誤が必要になる。だから、どういう状態であっても、どういう絵にでも買われる幅が大きい紙が良い紙になる。色や筆触に関してはどの紙でもなんとかなる。問題は自由度がどれだけあるかだ。

 また紙は作業の痕跡を残してくれなければならない。紙初めから、終わるまでどんな試行錯誤をしたとしても、その制作のすべてが現れている紙が良い紙である。その制作の過程は制作者それぞれで違うだろう。だから私が好む紙と他の意図が好む紙は違って当然である。

 大半をファブリアーノの紙で描いている。慣れてしまったという事もあるが、何をやっても壊れない頑丈な紙である。しかも水彩のごくごくうすい、水にわずかに色が付いたような絵の具でも、そのわずかな変化を表すことが出来る。それを何度も何度もきりがなく、繰り返し塗ることも出来る。

 その上にそうした初期の作業を一気に消してしまった跡の美しさまである。この紙は今ある紙の中で一番自由度が大きいのだ。油彩画を描いているのと変わりがない制作が出来る。絵は何も考えないで、反応で描いている。良くしようとも考えない。ただ従う。

 この従う時に紙の問題が出てくるのだ。自分に合わない紙であれば、自分の世界が出現しない。しかしそういう悪い紙でも、ある時化けるから油断できない。描きずらいどうにもならない紙で、自分らしいと言える絵が現れるときもある。紙はだから難しい。

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