絵画の空間について

水牛の「さくら」
絵画で一番自分を表す物は空間なのだと考えるようになった。絵画は平面に描く作品だから、空間と行っても彫刻のような現実空間ではなく、作り上げられた仮想空間である。一見空間があるように見えるものが絵画だから、その空間の在り方に制作者が一番反映される。
作品を構成するものには色や線や形があり、表しているものの意味がある。私が描くものはあくまで具象画であるので、山や海や花などの意味が存在する。見るものにはその意味がとても重要になる。しかし、描くものにとっては線の引き方や色の具合の方に重きが置かれ、その結果生まれる空間が自分の世界を反映する。
普通の絵画論では例えばゴッホの絵で向日葵が描かれているのか、麦畑が描かれているのか。教会が描かれている。と言うような絵のその意味から作者の作品に込めたものをたどろうとする。しかし、ゴッホにとって重要だったのは絵に描かれたものの意味よりも、ゴッホならではの空間感が切実に自分であるかだったはずである。
ゴッホ以外のものには描くことの出来なかった。深刻で、切迫した空間の世界である。その空間にゴッホのすべてが表現されていると言える。その空間の臨場感がすさまじい物なので、見るものはゴッホの観ていた世界に入り込んでしまう。
靴であろうが、椅子であろうが、それを見ているゴッホの目がひしひしと伝わってくる。いつの間にかゴッホの目になっているくらいの臨場感のある画面だ。その画面から、自殺するほかなかったゴッホの苦しさにまで、入り込んでしまう。そのすべてが空間にあると言って良いのだろう。
平面的と言われたマチスの絵も実はその平面構成された空間にすべてがある。切り紙を制作したマチス。純粋に色面の構成で、マチス自身の絵画空間を作り出そうとしたのだ。曖昧な要素をどこまでも切り捨てて、マチス自身の絵画であり得るのか。
絵画ではあるのだが、数学のような理詰めな世界がマチスにはある。色と形に、絵画の要素を純粋化して行き、その組み合わせで自分の空間が構成できるのかに挑戦している。そのことが、大きさによって同じ色でも意味が違って来るという、マチスの考え方に至る。
あくまで重要なことは色と形で作り上げられた空間がマチスになっているかどうかなのだ。マチスの思考していた高度な知的な世界が、芸術学の学術書を読んでいるかのような、絵画世界を私には感じさせる。マチスは次の絵画の始まりに見えて、実は近代絵画の結論だった気がする。
ハイパーリアリズムのような写真以上に現実らしい空間が作り上げられた絵がある。そこでは描かれたものの意味はほとんどなく、作り上げられた現実のようでありそうではない、空間の感触だけが印象に残る。この作者の存在を消し去る空間表現が、現代社会の無個性化あるいは疎外を感じさせる。
日本人の描いた、明治以降の絵画には日本人の空間があった。侘び寂び軽みのような日本人の芸術世界の哲学を、彷彿とさせる空間がある。それはまるで絵面は異なる、梅原でも、中川一政でも、万鉄五郎でも大きくは違わない。明治時代に出来たのであろう、上質な日本芸術の空気である。
絵を描くと言うことは自分の空間感に至るということなのだろう。絵に自分の空間を作ると言うことは、天才のみに許されたような仕事だ。多くの人は天才が作った空間の真似をしているに過ぎない。ところがその空間はその天才だけが観た世界だから、真似では話にならないわけだ。
わたしには一応、天才のマネではいけないということだけは分かった。しかし、凡人が凡人の空間を表したところで、まともな絵とは成らない。絵にならないためにもがいてもがいてありきたりの凡人の空間の絵を描いてきた。それは仕方がないことであった。止むえないことではあった。
それでも凡人の空間が近づいたなとは思う。ありきたりの普通の目が見た空間である。正しい方角を求めて進んできた以上、凡人にはそれしかやりようがなかったわけだ。天才のマネだけはしないで来れたことぐらいが良かったことかも知れない。
後は自分の人間修行である。自分がわずかでも深まることが出来れば、絵はいくらかでも絵になるはずだ。凡人が修行をして凡人を越えられるかどうかは分からない。ただ日々精進をして、やり尽くす以外に生きると言うことはない。まあ、この乞食根性が一番の修行の障害なのかも知れない。
欲しい欲しいの乞食道では、埒があかないのは分かっているのだが、自分にはこれ以外にやりようもない。努力をしないでがっかりするより、努力をしてがっかりした方がまだましだ。まだ、時間は十分にある。すこしづつ、自分の空間というものに、近づきたい。
意識していれば、いつかはたどり着くかもしれない。まずよく見ること。これしかない。よく見ていれば、稲を見て稲の状態が見えてくる。海を見て海が分かるところまで行かなければ、海の空間はとらえられるはずがない。海が見えないのに、海の絵が描けるはずもない。
のぼたん農園の絵はまだ描けない。まだ理解できていない途上だからだろう。分かると言うことがなければ、絵画空間の感触は把握できない。それが絵画のおもしろいところだ。一つ一つ似ていて違うのが空間意識だろう。自然と向かい合い、見ているほかない。