創作に著作権は要らない
創作に著作権は要らない。この美しい里山の景色を作り出したのは、ここでの人間の暮らしである。誰も入場料など取らない。素晴らしい暮らしがあり、素晴らしい景色が生まれ、それを味あわせてもらう。この素晴らしい景色を見せてもらうという喜びに勝るものはない。
見るという事も創作である。創作すること自体が人間の喜びである。そのことを純粋に深めるだけでいい。創作から産まれたものはすべての人間に共通の価値である。創作者が権利を主張する必要はない。資本主義が限界に来たのは、創作に対する能力主義の問題なのだ。
2019年、京都アニメーションが自分の作品を盗用したとして、勝手な思い込みで恨みを膨らませた。そして恨みを晴らすのだと、全くの筋違いの狂気で、放火をして社員36人が死亡、32人が重軽傷を負った 事件を起こしてしまった。被告の精神鑑定を行った医師が「被告は重度の妄想性障害で妄想は犯行の動機を形成している」とする鑑定結果を明らかにした。
若い優秀なアニメクリエーターの方が、これほど多く亡くなられた。日本のアニメ―ションは世界をリードしている。世田谷学園の美術部からもアニメーターになった人がいる。前途有望な青年たちが、ここで終わりになることに、どれほど無念だったのかと思う。思い出す都度鎮魂の思いは深い。
逆恨みが狂気を育てたとしか思えない、ひどい犯罪である。まともな精神状況ではなかったのだろう。しかし、この事件と同じような盗用に対する抗議が、様々な制作会社に続いているという。小説であれ、音楽であれ、絵画であれ、デザインであれ、学問であれ、盗作の境目が難しい状況になっている。
アイデアなどすべてが大きな違いはない。人間が考える範囲では、アイデアは出尽くしている。今や推理小説のトリックを、生成AIが考え出す時代だ。ジャイアント馬場さんが、水戸黄門のストーリーは5パターンで出来ている。これをプロレスに生かしていると、ネタバレをしたことがあった。
京アニ事件での犯人が盗用と考えるようになったきっかけは、京アニが公募したコンクールへ出品した作品のことらしい。簡単な筋書きのような原稿を、たった一枚の紙に書いて応募したらしいのだ。これで盗用されたとしゅちょうするのは、作品の作られる過程というようなものをまるで理解していないからだろう。ラフな筋書きなどに盗用などあり得ない。
しかし、アニメオタクのような人物が、引きこもりになりのめり込んで妄想の中で暮していて、被害妄想に陥ることはありそうなことだ。放火はしないまでも、とんでもないことを考え出す人が跡を絶たないらしい。自分が描いたイラストが盗用されたというような主張は跡を絶たないという。
イラストなど人間を描いたのであれば大なり小なり似ている。それを盗用だと思い込んでしまう。目が二つあるでは無いかと言うことになれば切りが無い。しかし妄想を起す人にはそんな理屈は通らない。この妄想をどうすれば良いのかと言っても、どうにもならないだろう。
そもそも、著作権という考え方をすべて捨てるべきなのだ。個人の発想に価値を付ける考え方は終わった方がいい。時代の状況に合わないのだ。良く分からないのだが、絵を描くのもAIの時代に入った。薔薇などどう描いたところで著作権などあり得ないだろう。私が描いた薔薇をまねられたなどと言ったところで相手にもされない。
昔東郷青児が自分の絵の図柄に特許を付けたというような、本当かウソかわからないような話があった。つまり特許をとっておかなければすぐにも、真似られてしまうイラスト的な絵という事を言っていたのだろう。確か娘さんが、同じような絵を描いていた。
絵画とは言えない形で一世を風靡したことはあったが、今では完全に廃れた。本物の絵画ではないから、作品の命は短かった。別段イラストレーターという事でも良かったのだろうが、それでは一枚の絵が一千万円なんて言うか価格では売れなかったという事になる。
AIが作り出す画像は著作権がまだ整理されていない。デザイナーがタイポグラフィーとして文字を作るなどという作業は、もうAIの世界だろう。一文字一文字手描きして文字を作るというような気の遠くなるような作業が、数時間で出来てしまうのだろう。
読みやすい丸文字で、手書き風。とか言えばなんとなくそんな文字を作りそうだ。例えば私が書いた手書きの文字をAIに入力すれば、笹村文字が出現するはずだ。もうこういう時代の中で、著作権などと言っているのは、ばかばかしくないのだろうか。
たぶんそういう事で生計を立てている人がいるから、著作権を主張したくなるのだろう。しかし、もう機械任せにした方が安上がりな分野は日に日に広がっている。人間がやるべき仕事が変わって行こうとしているのだ。藤井将棋ではないが、人間の能力をコンピュターは超えたのだ。越えられても将棋は終わりではなかったのだ。
こういう中で人間の意味ある行為とは何か。それを考えるべきだ。私は行為するそのことにあると思っている。結果に人間の価値を見るのではなく、行為にどれだけ充実したものを残せるか。藤井将棋は見る将棋というものを作った。今や見る将棋ファーンが沢山いる。
人間が生きてゆくこと自体は、体力でも創作でも楽になるはずだ。農業でもあらかたの作業は機械がやれるようになる。しかし、実際の耕作の在り方を決めるのは人間である。人間がどうやれるかがこれからの生きるということになる。
自分らしくあるだけでいい。自分の日々を充実できればいい。農産物は販売していい。創作物は販売してはならない。創作物を商品と考えれば、創作が創作ではなくなる。禅坊主が座禅を見世物にしてお布施を貰うようなことになる。
芸術活動は創造するという事自体を純粋化すればいいだけなのだ。それが一日一日を生きるという充実になる。これが私絵画である。芸術は商品から離れなければならない。そうしなければ、資本主義末期の投資対象になり、人間の為の芸術から離れるばかりである。
農業でも生成AIにかかわるとすれば、ひこばえ農法の10通りの方法を教えてください。と頼めば、いくらかでも役立つ方法が示されるかもしれない。そしてそれを実践して見る。この実践が人間のやるべき仕事ではないか。充実して農作業に生きるという事が、生きることの目的になればそれでいい。
権利を主張して、その権利でお金を産もうという事が、能力主義の悪いところなのだ。能力主義が限界に達している。競争に敗れるものが人間の大半なのだ。そして敗者が今後も増加してゆくだろう。これが格差になる。それは国単位の争いにもなっている。
現状ではそれを克服できるものであるはずの共産主義国の方が、能力主義の無残をさらしている。人間が能力主義を超えることのできる生きものであるのかどうかは分からないが、どこかで方向を変えなければ、人間が終わりになることだけは確かだ。