横尾忠則の「寒山拾得展」の不可思議

   



 先日、NHKネットに出ていた横尾忠則氏のインタビュー記事を読んだ。この人の絵の描き方は、良くよく私に似ていた。世間から見れば、私の絵の描き方が横尾氏に似ていたわけだ。つまり横尾氏も「私絵画」なのだ。多分今の時代に自分に向かって正直に絵を描くと、私絵画になりがちだと再確認した。

 ポーランドの田舎町で横尾忠則展を見つけて驚いて見たことがある。40年前のことだろう。まだポーランドが共産圏と言われた時代だ。その街で多分クラクフ近郊だったと思うのだが、日本人の絵画の展覧会が開かれたのは空前絶後のことではなかっただろうか。それくらい、「世界の横尾忠則」だった人なのだ。あのときの横尾氏はまだ45歳。

 その後横尾氏はイラストを止めて、絵描きになると、絵画を描き始めた。それまでのイラストと較べて、意味不明な絵になった。描きたいものを描いた結果意味不明になるのは、自分に入り込もうとしているからだと思えた。この後どうなるのだろうかと強い興味を持った。

 情報でつくるイラストを描くことには、天才だったと思う。そんな人でも自分とは何かは難しかったのだ。人目を捨てた途端に、人間は位置をとらえるジャイロを失う。そこから自分とは何かが始まるのではないか。結果として自分に至れる人と、見失ってしまう人がいる。

 自分に至るためには正しい方角を見定める必要がある。人間界をはなれて、自分のは中に入り込むことで、下手をすると世間を失って、独善に至るだけの人がいる。こうなるとつまらないことになる。私絵画で良いのだが、世界観という大きな価値観を失ってはならない。

 87歳になった横尾忠則氏はそのまま何とも言えない絵を描き続けている。今東京都博物館で横尾忠則展が開催されているらしい。「横尾忠則 寒山百得」展である。見ないでも分かっているので行かないが、私絵画がどういうものかは分かると思う。良い絵を描こうと言うことでは無いことだけはよく分かる。ある種のだらしがない絵になっている。

 横尾氏は若い頃にやっていたイラストレーターの仕事は、多分忘れたい仕事なのだ。世界を驚かせたあのイラストの世界を、「あれは、アイデアであり、自分の中から出てきた世界ではない」と思い、本当の自分に至ろうと考えたのだ。そうしたら、寒山拾得になったのではないだろうか。

 本当の自分など居ないというのが、あの横尾忠則のイラスト画ではないか。インチキをインチキと表現できたのだ。それが絵の面白さだ。だめなことをだめと表現できれば良いし、良いものを良いものと表現する価値と、何も変らないのが絵の世界だ。

 横尾忠則氏は勲章をもらった。国の評価した人はこの寒山拾得を素晴らしいと考えて勲章を与えたのだろうか。過去の栄光を評価したのだろうか。過去の栄光から抜け出て、こういうとんでもない絵画を描いたことを評価した勲章なのか。もしそうだとすれば、すごいことだと思うが。それは権威というものにはできないはずのことだ。

 何とも私には分からないことである。人間が生きると言うことは、やっかいなことである。100年後横尾忠則氏はどのように見られるのであろうか。まあそういうこともどうでも良いと考えているに違いない。一体誰が描いたんだろうというような絵を描きたいという、私絵画なのだから。

 私絵画で気を付けなければいけないことは、藝術の社会性と価値である。私絵画といえども、社会への表現でなければならない。それは人間だからである。私さえ良ければと言うのが、私絵画ではない。自分よりも回りのことである。ここが藝術の大切なところだ。周りのために自分に入るのだ。

 人間のための科学、人間のための学問、人間のための藝術である。これを忘れてしまえば、私絵画は藝術ではなくなる。私絵画は自分というものを探求すると言うことを目的として、絵画を描いて行く。自分の修行として絵を描く。その先には藝術による人間の救済がある。

 横尾忠則氏はアホになる修行と言われる。一体この絵は誰が描いたのだろうと、自分自身にもわからなくなるという事を言っている。まあアホの言う気ままな気分的な事だから、真に受けてはならない。修行を持ち出すところがそもそもアホポッくない。

 誰でもがそうしたアホに至れるわけではない。しかし、そういう方角を目指して、日々生きて行きたい。そういう修業努力を続けることは出来るはずだ。私で言えば日々の一枚である。そしてその方角を確認することではないか。横尾忠則氏の絵画が、そのアホの方角を進んでいるのかどうかだけが問題なのだろう。

 先日、Ksギャラリーで水彩人に関わる3人展をみた。よくできてはいるのだが、迫ってくる一人一人の世界観がない。絵が器用に作られている。水彩の怖いのはその水彩の持ち味で、そこそこの感じが出てしまい、絵のごとく見えてしまうことにある。アホからは程遠いことになる。これが描いている人、自身の眼を誤らせる。

 そこそこのいい感じは怖い。絵はだめでもその人のだめであれば、それがいい。横尾忠則の絵はそうした絵だ
と思う。あれでだらしないところがなくなればいいのだがと思う。だらしないのは性格なのだろう。私のだめはそういう意味では、「もっともらしい」ところかもしれない。

 高橋千賀子さん、山下美保子さん、米倉三貴さんである。Ksギャラリーでは抽象画の展覧会が開かれている。これは今時では珍しいかもしれない。このぎゃらりーの傾向のようなものがある。これは立派なことなのだと思う。20年ぐらい同じであったら、世間の方が変化している。

 世間の方が堕落したのだ。もう見渡せば商品絵画ばかりである。買ってください買ってくださいと、絵がよだれを垂らしている。売れそうなものに世の中は動いてゆく。時代が腐り始めているから、即物的なものしか受け入れられなくなっている。だから絵がいよいよ物欲しげになる。

 このてんが、横尾忠則氏は違う。もちろん自分の美術館もあるわけだし、今更絵を売らなければならないなどということももちろんないのだろう。この先に描かれる絵をまだ期待している。90歳を越えて修行が成就して、アホになれば、まだ大化けする可能性がある。私絵画の追随者として、そうなることを願っている。

 - 水彩画