記憶障害と発達障害
かなり忘れやすい方だと思う。というか、かなり覚えが悪い。記憶できない発達障害という病気があるらしい。学習障害とも言われる。重い方ではないと思うが、子供の頃は学習障害と言える状態だった思い返す。読書は好きだったのだが、漢字を書けるように覚えると言うことが出来なかった。
理由がよく分からなかったので、あきらめていた。今考えてみれば、記憶障害とか、発達障害だったのかも知れないと考える。両親というか、父の姉の人がどこかおかしいと思い、いとこが務めていた聖路加病院の神経科に連れて行ったのだったと思う。
家にある遺伝的な発達障害を見てきて、これは似たものだとおばさんは考えたに違いない。病院では神経をいくらか病んでいるというようなことを言われたようだが、当人の私は困っていたわけでもなかったので、心配はしていなかった。
覚えようと努力はするのだが、普通の人の数倍の努力をしても、漢字テストではいつもだめだった。0点の時もあった。読めることは読めるのだが、書くことが出来ない。それでも格段の努力をすれば、いくらかは覚えられるという程度。記憶力が人より足りないと自覚せざる得なかった。
人の名前が覚えられなかった。教師になっても生徒の名前がいつまで経っても覚えられなかった。今でも同じで、気を付けているのだが、人に嫌な思いをさせている。しかし、これは軽度の病的なものなので、許してもらうほか無い。多分、記憶力が悪いのは、発達障害の一種なのだと思う。
調べてみると記憶障害ではないようだ。発達障害と記憶障害の共通する症状の一つに、つい先ほどまで見ていたものを隠した瞬間に思い出すことが難しいということがある。これは発達障害の即時記憶が苦手という点と、記憶障害の短期記憶が苦手という点が似ているからと記載されている。が、見たものをすぐ思い出せないと言うことでは無い。
漢字を覚えるとか、九九を覚えるとか、ただ意味の繋がり無く記号を記憶をすると言うことが苦手なのだ。その人の名前は覚えにくいが、その人が誰であるかとか、前にあったことがある人だとか言うことは良く分かっている。その絵のことは細部まで覚えていて、作者の名前が出てこないということも良くある。
まあこんなことをいくら書いてみても仕方がないのだが、英語も覚えることが出来なかった。記憶能力が低くても、何とか適当なフランス語で、フランス生活を送ることは出来た。記憶能力が不足しても、何とか生活はなったので、心配はいらないと言うことを書いておきたかったのだ。
子供の頃の記憶は人一番克明である。小学校の同窓会などで、細部まで記憶しているのは、私だけと言うことが色々あった。風景に対する記憶は絵が描けるように細部まで克明である。興味のあることは人より記憶できて、意味に繋がりのないことは、どうしても記憶できない。脳の回路のある部分が欠けているような感じなのだ。
だからなのか、忘れられない不愉快なことだけは山ほど在る。思い出したくもない嫌なことが、突然飛び出てきて、げっそりすることが頻繁にある。その都度後悔が湧き上がってくる。自分が悪いわけだ。馬鹿なことをやった。迷惑をかけた。不愉快な思いにさせた。ああだめだ、ダメだ。3日に一度くらい思い出して落ち込む。
そんな耐えきれない記憶が数限りなくある。ひどい人間だと思わざる得ない。よくそれでもここまでやってこれたものだ。私なら怒ってしまっただろうに、世間の人は優しいものだと思う。悪い所に目をつぶってくれた人の方がはるかに多かった。もちろん怒らせて縁が切れた人も多々ある。またそのことが不愉快な記憶として蘇る。
歳をとると言うことでも、嫌なことだけは忘れられるというものでもない。嫌なことは決して忘れない。あああのときの後悔。何時までも残る。こうして死んで行くのかと思うと、情けない。その場ですぐに気付いて謝れば良いのに大抵はそれが出来ない。
振り返れば悔いばかり、前途は洋々、後は暗い。それなのだ。次へ次へと前に進むのは、後の魔から逃げているようなものだ。前への希望に向かっているときであれば、辛い記憶を忘れている事ができる。これから良くなるぞと思って、嫌な記憶から逃れているようなものだ。
この過去の悪い記憶が蘇ることをフラッシュバックと言うらしい。これもまた発達障害の現れらしい。発達障害から来る「苦手の多さ、白黒思考、感覚過敏、対人不安」などから、悪い記憶が突然浮んできてしまうらしい。思い当たることが多い。
物は考えようである。希望に生きる事に熱中していれば、数限りない失敗を忘れていられる。努力しているつもりでいれば、だめだったことを乗り越えられる。正しい努力なのかどうかは分からないが、精一杯の努力をしていれば、仕方がないと思うことは出来る。
日々の一枚を続けているのも、多分それなのだと思う。やらないで出来ないと言うことは耐えられないが、やってだめなのはまだ良い。絵を描くと言うことが良いのは、前描いた絵と今日描いた絵とを並べて比較が出来る所にある。
自分が進んでいるのか交代
しているのか、方向は正しいのか。描いた絵で確認できることがある。少なくとも心機一転のつもりで石垣島に来てから、日々の一枚を続けて、いくらか自分に入り込み始めた気でいる。過去のものまね出でっち上げた自分を放逸出来た気がしている。
しているのか、方向は正しいのか。描いた絵で確認できることがある。少なくとも心機一転のつもりで石垣島に来てから、日々の一枚を続けて、いくらか自分に入り込み始めた気でいる。過去のものまね出でっち上げた自分を放逸出来た気がしている。
この歳になると、認知症の前兆のような、思い出せないことが良くある。これがひどくならないようにとは願っているが、この歳を取って物忘れをするというのと、記憶が出来ないと言う脳の欠落とはそもそもは別なようだが、最近には認知症予防の法が深刻である。
発達障害の場合、変らない事へのこだわりがあるらしい。だから例えばパソコンに興味を持つとそれにこだわり、のめり込み特異な能力に至る人がいる。ハッカーとか言われる人にはそういう人がいるのではないかと思われる。私の場合過去の風景、目で見るものへこだわりがいくらか強いのかも知れない。
それで絵を描いて、見えているものを確認したいという要求が出てくるのかも知れない。カメラアイと言われるものである。これで嫌な記憶が鮮明に残ってしまうらしい。私の場合、トラウマと言われるようなことは体験がなく、大体はつまらない自己嫌悪である。
自尊心が強すぎて傷が付く。裏返しのような感じがする。誰もそれほど注目などしていないと言うことではすまない、何か自分の内的な問題のようだ。こういうことは発達障害の研究が進んで分かってきたことのようだ。そうだったのかと分かれば、それなりに安心する。
軽度の発達障害的傾向があったと言うことは確かだ。それで今でも迷惑をかけているのも確かだ。しかし、この歳になるとすれど頃ではない。認知症の進行をどう止めるかだ。年々物忘れがひどくなる。どうすれば良いか脳トレなどと言うインチキ対処法まで気になる。
こうしてブログを書く。絵を描く。農作業をする。太極拳を継続する。それでもだめなら仕方がない。何とか100歳まで持てば良い。万全とは行かなくとも、何とか持たせることが目標である。