不登校やいじめの急増

   



 文科省の発表によると不登校の児童、生徒が去年より22%も増えているとある。30万人も居ると書かれている。本当なのかと思う得るほどの人数である。不登校は10年前と比較すると小学生は3.6倍、中学生は2.1倍増となっている。いじめ件数も過去最多の68万件超えと出ている。

 922万人の内30万人の子供が学校に行きたくない、あるいは行けない社会なのだ。学校で何かが起きていると考えなければ成らないのだろう。学校というありかたが、すでに制度不全に陥っているのかもしれない。社会や家庭との乖離が大きくなっていると想像される。

 日本の学校教育は、明治政府が構築したままほとんど変らない形で継続されている。この大きく変化している時代の中、150年も旧態依然のままであれば、当然おかしなことになるだろう。学校は産業の要請にこたえるものという考え方である。結局はお国の為の教育である。ますますの産学協同が叫ばれている。

 次の時代の産業が見えない現代社会では、学校教育の内容が適合できなくなっている。産学協同といっても、学校教育側では具体化できない目標だろう。社会が不安定化している。どんな職業であれば暮らしていけるのかが見えない。それでは産業振興を目的とする日本の公教育の目的が揺らぐのも当たり前のことだ。

 子供達にも不安が波及した結果、不登校やいじめが増加している。背景にあるものは、学校制度そのものが社会に適合できない。学校制度が不適合になる背景には、AIによる産業革命の社会の変化が大きいのではないか。AIの登場で今学校で学んでいるものが、社会に出た頃には無意味化する可能性が高い。

 例えば近年になって英語教育が小学校まで行われるようになった。企業が英語が必要であると要請した結果、行われるようになった。ところが、おそらく今の小学生が大人になる頃には、自動通訳期が一般化していて、機械によって自然にどこの国の人とも会話が出来るようになっているはずだ。

 英語教育に時間を割かれている間に、失われているものに国語力と言う肝心な科目があるかもしれない。母国語の力が不足している子供達が、一体英語がいくらかしゃべれたとしても、意味があるだろうか。何が教育には求められるかが、産業の急激な変化と、日本の遅れで狂い始めている。

 いつの時代にも必要な能力は母国語の能力の高さである。考える能力である。本来義務教育ではそうした揺らがない基本が教えられなければならない。学校教育が目先のことにとらわれて、企業の要請にこたえようと、対応に追われている状態なのだから、学校が何を学ぶべき場所なのかということが揺らいでいることになる。

 これが学校という存在に、教育の目標に対する自信を失わせているのではないか。教師が自信を持って、こういう人間になりなさいとは言えない時代だろう。これを覚えなさいと行っても、空しさを覚える教師も多いのではないだろうか。これは不登校の一因ではないか。

 もう一つ象徴的なことが、道徳教育が行われることになった事がある。日本人に道徳が失われてきたという意識が、教育関係者や政治家や官僚の中にあるのだろう。権力者の視線で国民を見たときに、日本人の良い資質が失われているとみている。それは家族を大切にして、権力者に従うという資質。

 果たしてそれは学校教育で何とかなるものなのだろうか。翻って社会を見れば、特に政治家などにこそ道徳教育が必要だろう。政治家になったらまず、政治家の倫理の規範の学習を行う必要があるほどだ。道徳のある資本主義と総理大臣が言わなければならないほど道徳など無い時代である。

 大人の姿を見て子供の道徳心は育つのだ。宗教という物はそういう物だろう。偉いお坊さんに感化されるのだ。大人がとんでもなければ、つまり教える教師が不道徳であれば、到底道徳教育など出来るはずも無い。道徳は人間から伝わる物だ。

 私は世田谷学園で、三沢智雄先生、山本素峰先生、萩野浩基先生に出会う事が出来た。禅宗の僧侶の方々である。これほどありがたいことはなかった。生き方を教えて頂いた。人間としてどう生きるのかを見て学んだ。74歳になって、しみじみ命の恩人だと思っている。

 ビックモーターの経営方針が、まさに日本なのだ。ばれたビックモーターがヘマをやらかしたに過ぎない。ホリエモンの頃から、金儲けが善となった。守銭奴で何が悪いという時代である。一体こうした社会の本音を学校教育の道徳はどう正そうというのだろうか。

 学校教育の崩壊はフリースクールを文科省が認めたからだというのは、まったく見当違いだと言うことが分かる。あの市長はまさに不登校児童を生産している人物だ。偉そうな分かったようなことばかり言う人間がいる。そんな学校は嫌だ、嫌だ。だから学校には行きたくないのだ。

 30万人の子供をどこかに居場所を作らなければ、大変なことになるという緊急対応なのだ。もちろんフリースクールがあれば解決などと言うことでは無い。フリースクールが無ければ、家に居ることになる。今度は家に居れば、埼玉の条例違反で留守番禁止になる。

 不登校は社会が崩壊を
始めているシグナルである。もう限界だと子供達から声が上がったと考えなければ成らない。30万人の子供達の悲鳴を受け止めなければならない。子供達の方が敏感だから、社会のゆがみをもろに受けているのだろう。

 大人達は日々の暮らしに追われて、それどころではない。学校で何とかしてよと言うことだろう。「学校教育の矛盾は生徒に現れる」と金沢大学の教育基本法の時間に小松先生は言われた。30万人の不登校は、現代の教育が問題があるということを示している。

 その問題の根底にあるものは、拝金主義である。社会倫理の成立していない社会だからだ。日本人がまともな暮らしを見失ったのだ。日本人が大切にしてきた価値観は、農村から生まれたものだ。勤勉とか、協働とか、思いやりとか。日本人が農業を捨てたことによって、日本人が都市生活者になり倫理が消えた。

 学校に作務の時間を設けたらどうだろうか。禅堂では作務を修行の重要な物としている。掃除を修行として行う。世田谷学園で教えていたときに、美術室の掃除当番というものがあり、掃除に担当のクラスの生徒が来る。ほとんどの子供は掃除をまともにしようとはしない。

 一緒に美術室の掃除をした。子供達には特に何も言わなかったが、教師の私が掃除をした。それは自分が教える場所を掃除するのは、当たり前の事だと思っていたからだ。生徒に一緒に掃除をしようとは言ったが、掃除を強制する気は無かった。自分のために掃除をしていたからだ。

 中には一緒に本気で掃除の出来る子供が居た。すごい子供だと思った。それが今の世田谷学園の校長になった生徒だ。作務の時間の重要性が学校教育から失われたことが、不登校が増えた原因ではないだろうか。一緒に働いてみて、学ぶことが出てくる。

 教師から学ぶものは、知識だけではない。金儲けの方法ではもちろん無い。教師自身の教えるという仕事への情熱が、生徒に働くという意味を伝える。お金のために教えているというのでは、生徒に残せる物は少ない。教育を素晴らしいものだと考える教師を作ることが重要である。

 そのために、教師と生徒が一緒に働く作務の時間を作ることが良い。冗談じゃない、掃除は掃除の業者にやらせればいいではないかと言うような教師では、不登校の生徒を生むことになるのだ。
 

 

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