上野カプセルサウナ「SIZUKU]に泊まった。

   



 月に一回1週ほど小田原に行く。東京で用事があるので、そのついでに小田原に寄る。小田原に用事があるので、そのついでに東京に寄る方が実際かも知れない。どちらが重いと言うことでも無いのだが、2つ用事があるので月に1回石垣島を離れることになる。

 石垣島を時々離れることも必要な気がしている。何しろ2拠点生活を一応標榜しているのだ。目を改めると言うことがある。刮目するために場所を変える。見慣れてしまうと言うことは、絵を描く上で良くないことかもしれない。見慣れた上で忘れると言うことだろう。

 絵を描く為に見ると言うことは、小脳化する?まで見るというようなことだ。見ないでも分かっているのだが、その上で見ると言うことを大切にしている。記憶の中の風景なのだが、目の前にもある。見ているのだが、むしろ思い出して絵を描いている。

 見て忘れることは難しい。忘れた物を思い出しながら描くのはどうだろうか。これはさらに難しい。忘れられないほどまず見なければならない。親の顔と言っても描けるほど覚えている人はどれほどいるだろうか。自分の顔などほとんど見たこともない。

 このところ石垣島の農場が、かなり大変な作業が続いた。それから距離を置きたいと言う気分も無いわけではない。サウナに行くのは農閑期の湯治のような物ではないか。肉体労働者には必要なことだ。石垣島でもアートホテルのサウナには行くことがあるのだが、何故か、それほど行きたいとは思わない。

 石垣島の農業では農閑期など無いから、つまりいつでも農繁期の気候なのだ。いつでも田植えが出来るし、いつでも稲刈りが待っている。意識的に農閑期を作らないわけには行かない。と言って小田原には小田原の違う農作業がある。この農作業が楽しみなのだから、自給農業病の病膏肓である。

 身体を動かす事が一番信頼できる。頭よりは肉体を信頼している。動くことが好きなのだろう。だから坐禅よりも動禅である。ランニングが趣味という人がいる。高校生の頃陸上部の長距離班だったので、走ることは理解しているつもりだが、走ることを趣味的な物などとは到底言えなかった。

 楽しみでランニングしているという人の気分はいまだに理解しがたい。何故あんなに辛くて、嫌だったのに、走っていたのかと思う。辛いことだったからやり遂げなければならないと言うことだったと思う。途中で投げ出す自分が許せなかった。

 と言って走ることに目標があったわけではない。ある意味好きかってに、その日その日の限界まで走っていた。やはり、それは治療法だったとだと思う。陸上部に入った動機はノイローゼ改善である。聖路加の精神科に通った結果、運動でもするのもよいということである。

 ノイローゼと自分で思っていたわけではないのだが、回りがそう言うので、そうかも知れないぐらいだった。ともかくいたたまれない気持ちが強かったので、走って鬱憤晴らしをしていたのだろう。走ると走っている間は確かに忘れてしまう物があった。

 いたたまれなさは今も変わらないのだが、走る代わりに農作業をやり、絵を描いている。ひたすら何かをしていれば、忘れられることがある。忘れようとしていることが、耐えがたい物かすらよく分からないのだが、死ぬと言う現実かもしれない。今をひたすらに生きるというのは、死を忘れている時間。

 石垣島南の島空港を夕方に出ると、上野に夜中の0時前に着く。すぐに寝てしまう。上手く飛行機で寝ることが出来ることができた。シズクに着いたらサウナに何を置いても入った。そして眠た。

 最近上野のカプセルホテルも予約が取れないくらいに混んでいる。朝早く起きて、サウナに入り、気分を変えて東京の用事と言うことになる。前は上野のドウミーインに泊まることが多かったのだが、しずくのサウナが方が施設が良い。サウナも広くないといただけない。アートホテルのサウナは少し狭いのだ。

 カプセルで泊まることも今は慣れてしまい、家で寝るよりもむしろよく眠れるぐらいだ。本当はまずサウナにはいって、酒を飲んで寝ると言う、最高の手順にしたいのだが、どうだろうか。サウナには入り気分一心。酒はやめておいた。

 今度10月頃奈良に行くのだが、やはりサウナ優先で泊まれるところを探している。奈良健康ランドという所に泊まりたいと思っている。天理市にあるようだが、レンタカーを借りる予定なので、奈良周辺の天理市ぐらいであればどこでもかまわない。まだ他にもあるかも知れないので、少し探してみてから決めたいと思っている。

 奈良には大学の時の美術部の卒業旅行で行った。もう一度同じようなところを歩いてみたいと思っている。「あおに良し」というNHK連ドラがあったのだが、そのモデルになった日吉館という旅館に泊めてもらった。金沢美大の美術史の先生の紹介で、奈良巡りをしたのだ。当時奈良古仏巡礼が流行したのだ。

 日吉館は奈良に勉強に来る人しか泊めてもらえない旅館だった。格安で夕食にでる水炊きが美味しかった。もう文化を高めようという日吉館はない。日吉館だけではない。日本文化を大切に
する人も場所も失われつつある。お寺や仏像は物だ。それを支える文化は人間だ。人間がいて始めて、仏像が文化になる。

 過疎化して行く地方。廃墟化して行く郊外。日本が失われて行くような危機感がある。日本人は大切にしてきたものを見失った。昔はもぅと貧しかったのだが、大切にしなければならないものをしっかりと持った人が各所にいた。そういう大切な人を中心に、日本は守られていたのだと思う。

 今回の1週間の小田原でも身体を使って作業をしたい。溜め池の草刈りは必要だろう。大豆の草取りはいるはずだ。このさきの小麦畑のことなども相談しなければならない。田んぼはどうなっているだろうか。これも気になるところだ。

 

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