私絵画の意味の確認

   



 「私絵画」という言葉は私小説という言葉から考えた造語である。私小説という分野があるのならば、絵画の分野として私絵画があってもいいのではないか。と考えたのだ。絵画の中には宗教絵画とか、装飾絵画とか、純粋絵画とか、政治的絵画とか、一応範疇があるのではないだろうか。

 絵画の社会的な役割が失われてゆく時代の中で、描かれた絵画の役割から考える絵画ではなく、描く行為そのものに意味を見出す絵画活動があってもいいのではないかと考えるようになった。社会性を失った絵画の芸術としての意味の確認である。

 自分が芸術のつもりで、やっていることを考えてみると、そう考えざる得ないような描き方なのだ。自分の生き方に、絵を描くことは不可欠なものなのだが、社会性がない。社会とつながりのない絵画に意味があるのかと、かなり悩んだ時期があった。

 伝統的にそのような絵画の在り方が全くなかったわけではなく、富岡鉄斎は自らを儒学者と考えており、画家という狭い範疇で考えられることを好まなかった。人間の完成を目指した人であり、その方法の一つの絵画を写生で描くという事があったと考えて良いようだ。

 日本には伝統的に絵画道のような、絵を描く目的が道を究めるというような考え方がある。道という考え方は中国の儒教から来ているのだろう。生きることの目的として、道を究めるというような精神修養と絵画することを結びつけて考えるあり方でないだろうか。

 禅画というものになると、禅の修行を行い悟りの領域に達した僧がその精神を絵にして表わしたものと言う事になる。絵が描かれることもあるが、併せて字が書かれているものが多い。絵の修業から入るもあるし、禅の修行から入るもあるという事だろう。

 「私絵画」の到達点が、中川一政氏である。と考えるとわかりやすい。中川一政氏は僧侶になるつもりで絵を描いたと自著に書いている。確かに生涯只管打画に生きたと人である。丹田で絵を描くと言われ、禅の心境と極めて近い精神の絵画である。書も絵画も96歳で死ぬまで向上を続けている。

 修行を比較しても仕方がないことであるが、中川一政氏を学んで行きたい。自分の内側に向って、絵を描くことは非常に勇気がいる。怖いことである。評価基準のない世界である。進んでいるのか、後退しているのかもわからない。自分を信じて描き続けなければならない。

 良い仲間が必要である。禅の修行も一人で行ってはならないとされている。禅僧が自分の修業の状態を知るためには、これぞと思う先達の僧に会う事らしい。会えば自分の状態はおのずとわかることらしい。絵もそういうものではないだろうか。絵を並べてみればわかる。自分の状況が分からないようでは、そもそも初めから埒外の人である。

 具体的に方法を考えてみる。まずは見て描くことが出来なければならない。見るという事を突き詰めなければならない。ただ見たところで、絵になるものの何かが見えているわけではない。本質を見るという事は感動の正体を見るという事になる。

 何に感動してその感動の根源は見えているのかである。美しいなあというようなことでも、その見えている深さは全くそれぞれである。田んぼを見て美しいと見ることは誰にでもあるかもしれない。田んぼの土や水の色合いが美しい。水面の輝きが美しい。植えられたイネが生き生きとして美しくしい。畔の形が面白い。

 実は感動はそういう表面的な事だけではない。このお米を食べて命が生かされるという事に感動する人もいるのだろう。粘った田んぼの土壌の感触は、微生物で満たされ、得も言われるものである。この自然の綜合性に感動する人もいる。ぬるんだ水の肌に沁み込んでくる心地よさ。水面を渡ってくる風の匂いに、恍惚とする。人の感動の深さは計り知れないものだ。

 そして、田んぼで自分の身体がどれほど辛い作業をこなしたのか。田植えをし、成長し、穂を出し、実りの秋となる。そのすべてを含めて感動というものはある。これは私が子供のころから農作業に触れてきたという事があるから見える感動である。深い感動は生きざまに繋がっている。

 モネの庭には感動に満ちた極限の喜びがある。庭には家があり、家庭があり暮らす人がいる。日々の暮らしの空気がそこに満ちている。作り上げられた庭というものに世界観が込められてくる。その世界観に感動する。あの睡蓮池を掘り下げた気持ちも、絵に現れた見る喜びの、感動の根源になっているのだろう。

 庭という生活空間に生きる人間の感触をふくめて、モネは見ているのだ。ただ睡蓮の葉を描くという行為に、見るというすごさが溢れてくるのは、モネという人間の精神が、感動をもって睡蓮の葉を見ているからだ。ただ表面の形や色を見て居る眼とはまるで違うのだ。ただの眼とモネの眼を言った人がいるが、人間の見る深さの違いを分かっていない。

 庭を作り、庭を見て、感動して、そして描く。この繰り返しの中に物の極限の姿まで見える眼が宿ることになる。見るということに賭けた人の生き方が、モネの物の見方の根底にはある。見るために庭を作る。庭を作らなければ絵を描くための見るには至らない。

 分からなければ、形だけを見ても何も見えない。だから、まず行為することだろう。登山した山を書くことと見た山を書くことは違う。そして、絵を描くときには、物はその意味を失う。単なる色になる。単なる線になる。単なる点になる。睡蓮の説明を描いているわけではない。睡蓮を見た感動の方を、画面の上再構築しているのだ。

 だから、物の意味はない。そこには画面という世界で、自分の深いところで見て、感動した世界を再構築しているだけなのだ。その世界が人類全体に感動を呼び起こすほど深いものなのだ。それは睡蓮池を見るのとは別の感動なのだ。モネの精神世界に感動するのである。

 やっとそういう事が理解できて来たところだ。絵になる訳ではない。自分の絵がまだまだ及びもつかないという事だけは分かる。それが分かっただけでも一歩前進だと考えている。及ばない原因はまだ見え方が足りないからだ。私の精神世界が及ばないからだ。

 そこまで進むことが出来るかどうかは、不明であるが、やることは分かった。物を身体で作る。そしてその本質に触れる。本質を見る。後は描くだけだ。まだまだあいまいだから、曖昧な絵に終わっている。それらしいところまでは来ているのだが、肝心の部分がまだまだの絵だ。

 のぼたん農園を作る。そして描く。この繰り返しをやり続けたい。どこまでできるかはわからないが、やれる限り私絵画をやってみたい。そのことは楽しいことであるので身体が許せる間は続くことだろう。やりたいことである。辛い修行ではなく、楽しい修行である。楽観主義の修行である。
 

 

 - 水彩画