AIによる著作権侵害問題はない。
AIによる著作権侵害が問題になっている。チャットGPTが広がっているからだろう。画像AIも出てくる。結論から先に言えば、まったく問題ない。公表されている画像は、機械が作ろうが人間が作ろうが大いに使えば良いことだ。創作物の版権で生計を立てようと言うことが、間違った考えなのだ。
使えるものを創作できたなら、喜んで自由に使ってもらえば良い。人間全体の幸せを考えれば、著作権上の問題は無い。さすがに、この元の作品は誰のものであるぐらいは描くべきだろう。そのまま使うのは誤解が生じるので、著作者の名前を書き、作品の引用ぐらいは示して欲しい。AI創作ならその旨を記せば良い。
人間の創造物は、すべての人間共有のものである。制作者だからといってその著作権を主張するのはおかしいと考えている。私はササドリという鶏種を作出したことがあるが、それを誰がどう使おうと構わないとしてきた。今では残念なことに消えてしまったが。
人間は人のためになれることが、生きる目的であり、喜びのすべてである。人が使いたくなるようなものが創作できる人間であれば、著作権など無くとも生きていけるはずだ。真似をされたら価値がなくなるようなものなら、たいしたものではないのだ。
ミッキーマウスが中国で勝手に使われたと、デズニー社は騒いでいた。おかしいではないか。ウオルトデズニーならば使って貰えて喜んだはずだ。人に喜んで貰えれば満足した作家だと思う。何でも一儲けというアメリカ文化がいやらしいものだと思う。お金にならなければ、頑張らない文化は恥ずかしい。
創作物を飯の種にしようと言うこと自体が浅ましいことなのだ。それが資本主義の醜い一面である。免罪符を販売した教会のようなものだ。誰もが等しく暮らせるようにすればよい。金持ちも貧困もない平等な社会が良い。金になるから頑張るなどと言うことがおかしい。
幸いAIが出来て、人間が行う創作という意味が明確になり始めた。今までは創作物と思われていた物の大半が、他の作品が流用だったのだ。真似るが学ぶことだというように、前からあるものを真似て作り出すのが作品の始まりである。そこから進んで、自分自身の創造の世界には入れる人など滅多に居ないのだ。
今問われているのは、本当の意味での人間の創造性である。かつてないものを作るのが芸術のである。もちろん真似から始まるのだろう。しかし、そこからその人の世界に入って行く。それがどれほど陳腐なものであれ、その人の世界観まで行くことが出来れば、その人にとってはかけがいのないものに成る。
それが私絵画の世界である。他と競べない。自分人の修行のために絵を描く。自分が深まれば、絵も深まるはずだ。自分のいのちが輝けば、絵にいのちも籠ることになる。先ずは見て感動することだ。感動がないところに創造は産まれない。AIは感動をした振りぐらいしか出来ない。
AIはそのまねて学ぶことが人間以上に上手なのだ。アニメーションの制作者が類似のキャラクターものまねソフトを、著作権侵害だと言っていたが、すべてのアニメキャラクターは、そもそもものまねのような物だ。ミッキーマウスだってネズの絵を変容して真似た物だろう。
盗作と言ったところでそれほど深刻なことではない。著作権など無くせば良いのだ。その方が本当の創作に人間は入れるはずだ。薔薇の絵の著作権など無い。薔薇を最初に描いたのは私だから、次から描く人は著作権料を払え、などないだろう。問題は薔薇を通して自分の世界観を描けるかなのだ。
梅原流もあれば、中川流もある。しかしそれをいくら真似たところで、絵を描いたことにはならない。絵を描くとは自らの目で見た感動を描くことなのだ。上手く真似たからと言って、何にもならない。真似の薔薇の絵を描いて商品絵画には出来るだろう。
創作という物はまるでそういう物ではない。花というものを抽象化して、ネ自分の世界観を表すことが創作である。もちろん真似だから問題があるというのではない。そ言う物はいくらでもAIで表現できるものだと言うことだ。だから、著作権をその手前でどのように制限しようとも、くだらないことなのだ。
要するに自分の創作で利益を上げたいという欲が問題なのだ。創作に携わる物は創作の喜びで十分得るものを得ているのだ。それで生活を立てようなどと言うことは浅ましいことだ。芸術作品の創作するとか言うことと、生計を結びつけない時代が来て欲しい。そうすれば著作権をなくせる。
それぞれが収入と関係なく精一杯働いて、生きて行ける社会だ。憲法で健康的な生活が保障されているのだから、国が国民全員に一定額を支給する、「ベイシックインカム」という制度も良い。一定の収入は平等に支給しする。富裕層が生じないような税制にする。
そうした未来の世界を予感させるのが、AIやロボットの普及だ。チャットGPTはその始まりではないかと思える。だいたいの物はコンピュター創作で沢山だろう。そんな物に著作権などいらないに決まっている。現状ではまだ画像制作はないようだが、そんなものはすぐに出来るはずだ。オリンピックのデザイン盗作問題なども一切なしになる。デザインは実費程度。
このまま能力主義を必要なものとして、進んで行けば人間は行き詰まるはずだ。能力競争は人類が総体として幸せに生きるためには邪魔のものでしかない。能力がある人はみんなのために大いにその能力を発揮して、喜んで貰えれば幸せだろう。
その能力によって富裕層にならないでも、等しく暮らして行ければそれでいいではないか。能力を発揮して、お金でない価値で評価されれば、それで十分だと納得できるほうがいい。資本主義はこのまま行けば、富裕層を作り出し、階級が生まれ、息苦しい社会になるのは目に見えている。
能力主義の競争がなくなれば、人間は頑張らなくなる。と主張されているがそれは間違いだ。ベイシックインカムの社会はぐーたらを生み出す。それは資本主義に洗脳されたためにそう思い込まされているに過ぎない。人間はそれほどくだらない物ではないと信じて良い生き物だ。
人のために働き、その喜びが生きがいになるものだ。どれだけ十分に生きる事ができるかがすべてだ。すべての人が、自分のやりたいことが出来る社会が一番だろう。お金に縛られないのであれば、好きなことで生きて行ける。
人が余りやりたがらない仕事は、できる限りAIやロボット化して行く。どうしてもやり手がないような仕事が生じるとすれば、誰にも共通に一定期間義務化するというのもあるだろう。