コロナが5類に変わって
コロナは5類の伝染病に変わった。社会的に忘れ去ろうとしていると言うことだろう。それが出来るのなら良いのだが、年寄には未だ危険な病気であるので、忘れるわけにはいかない。5月9日は25人の人がコロナで死んだ。予測されたように増えている。流行していると判断すべき数字である。コロナは死者数の変化を見て、流行の状態を考えるべきだ。
今後この数字が公表されなくなる。公表しない方が良いという意味は経済のことを考えると、もううんざりだからコロナを忘れた方が良いと言うことなのだろう。今後は自助で対応すれば良いと言う政府の判断になる。新しいウイルスに対応したワクチンの準備はあるのだろうか。
コロナは老人に於いては、かなり深刻な感染症である。75歳以上の人が感染すれば2~5%の人は死ぬ病気だ。同じ5類のインフルエンザと競べると、10倍くらい致死率は高いと言うところが私の判断だ。しかし、読売新聞では同じ程度だとしている。どうも数値を都合良く公表している気がして成らない。コロナではこういうことが良くあった。
5類になり、コロナ死者数がみえなくなると、流行が把握できなくなる。これは用心する上でかなり困る。今のところNHKのデーターでは死者数が出ている。流行の状況で行動を変えていた。例えば、電車に乗るのに、混んでいる時間には乗らないとか、グリーン車に乗るとかしてきた。レストランにはまだ入りにくい。どうしても入るときには、ノドに殺菌スプレーである。連休明け2週間は要注意だ。
コロナは世界中の統計を見ても、老人の病気である。そういう意味で言えば老人国日本としては良く感染を制御した方だろう。老人国なのだから、もっとコロナ死亡者が増えてもおかしくはなかったのだ。老人が比較的ワクチンを打った人が多かったと言うことが、死者数がまだ少ない結果になったのだろう。
コロナを世界中で忘れようとしている姿こそ、経済優先の資本主義末期症状を良く現している。日本人は何時までもマスクをしていて、おかしな民族だという報道が良くある。悪意のある報道である。日本人の人目を気にする性格をとらえて、今時マスクをするのは変人だと思い込ませようとしている。
競争社会の限界のようなものが始まっている。当然コロナもその状況から生まれた病気と考えた方が良い。私は大規模畜産に原因があると考えている。一番怪しいのが、ミンク養殖である。いつかそのことは証明される時代が来るはずだ。
老人にはコロナで死んでもらおうというような意味が、社会の深層心理の奥底の了解になっていると言うこともあるのかも知れない。それが5類移行を出来る理由。経済至上主義であればあり得ることだ。働けない年寄は食うべからず。年寄がいなければ医療崩壊はない。これが次の時代なのかも知れない。
中世のペストの流行がルネッサンス社会を生んだように、コロナパンディミックが世界を次の時代に転換しようとしているのかも知れない。この次の時代は倫理が変わると言うことなのだろう。年寄を大切にしない時代。人間の労働力としての能力利用が徹底した時代。
次の時代は競争に勝つことは、人の命よりも重い。と言う時代なのだろうか。プーチンのウクライナ軍事侵攻はまさにそういう命軽視の行為である。時代の変化は良い方向とは限らない。次の時代のすさましさを想像すると恐ろしいことになる。
「人類の進歩と調和」が1970年の大阪万国博覧会のテーマだった。こんな言葉を掲げることが出来たのだ。しかし、あれから50年が進歩の時代だったのかと言えば、どうも人間が進歩したといは言えない気がする。「いのち輝く未来社会のデザイン 」が2025年の博覧会のテーマだという。
「いのち危うい未来社会のデザイン」と言う方が適切な気がする。人間には進歩などなかったし、50年間いくらか調和していた社会が分裂を深める時代だった。いのちの危機が迫る時代が待っていると考えた方が現実を見ている気になる。万国博のテーマと言うことは、そうなりたいが難しいという共通の願いなのだろう。
その願いは人間の本能的な危機感からいのち輝いて欲しいという、希望が生まれるのだろう。ところが現実は、その希望を押しやりいのちの危険を感じながら生きるほかない時代が来ると言うことなのではないか。それが感染症と侵略戦争の時代だ。
次の時代は悪い時代になると考えざる得ない。能力主義がより強まることになる。競争社会に巻き込まれないように、一歩退いて生きる方が良い。少なくとも自立して生きることができるような準備はしておく必要がある。そうしなければ、人間性のあるものとして生きることが難しくなるだろう。
競争の能力があるものが人間的に生きられるかと言えば、そうしたことにもならないはずだ。その能力を経済性だけに利用させられることになるだろう。人間が豊かに生きるということは、様々な要素がある。人それぞれである。それが尊重されない社会が来そうだ。
だから、次の時代の社会で人間らしく生きるためには、社会から距離を置かなければならなくなるのかも知れない。日本のルネッサンスとも言える鎌倉時代に道元の禅が中国から持ち込まれたように、混迷の時代になればなるほど、自分の領域を確保しな
ければならないことになる。
ければならないことになる。
次の時代に重要な要素が食糧の確保だと思っている。食糧を確保できれば、自分の生き方を貫ける可能性が高くなる。自給農業の確立である。これから食糧不足の時代が来る。地球の耕作地面積は限界に達している。その上に、気温上昇で耕地は減少してゆく。しかし、まだ世界の人口爆発が続くからだ。
食糧の確保は本来であれば、国の安全保障の中でも最重要課題だ。ところが政府は何十年も食糧自給を政策には掲げながら、自給率の低下を招いている。農業政策が破綻しているからだ。日本の食糧危機は差し迫った現実的な問題と考える必要がある。食糧は無くなったときには間に合わないものなのだ。
人は100坪の土地と、一日1時間の労働で、食糧が確保できる。そのためには協働の農場が必要になるだろう。水の確保が必要になるだろう。のぼたん農園がそのモデル農場になればと考えている。現在始めて1年半だ。まだまだ完成までの道のりは遠い。完成には5年はかかるとみている。
あと3年半が目標である。どこで誰がやるとしても食糧が不足を始める5年前に始める必要がある。本気で5年くらいはやらなければ、食糧自給の技術は身につくものではない。問題は食糧を確保して、何をするのかと言うことも出てくるだろう。
感染症は人間に新しい生き方を示唆している。人間は嫌でも代わらざる得ないのだろう。変わらなければ、コロナよりも恐ろしい感染症がパンディミックを起すことは確実である。たぶんそんな恐ろしいことが、繰り返されなければ人間は暮らしを変えることが出来ないのだろう。