自分になると言うことが難しい。

   


 
  サジオモダカが随分大きくなってきた。枯れてしまいそうな株が3株在るが、何とか生きている。大きくなるものとそうでもないものがある。何でもそんな物だ、条件は同じでも何かしら問題があり、十分な成長はしない物がある。人間だってそうだろう。

 岐阜のお寺の表示板におもしろい言葉があったという記事が新聞に出ていた。「キムタクには成れないが、キムタクも自分には成れない。」大層な人出だった信長祭りにちなんで張り出した物のようだ。お寺の住職によると、どこかの飲み屋の便所に張ってあった言葉だそうだ。

 住職がそのように、飲み屋の便所で見付けたとに答えたところが良い住職だ。飲み屋の便所でと言え人だから、こんなおもしろい言葉を探し当てることが出来たのだ。言葉の力だ。言葉という物は時々、すごい力を出すことがある。まさかキムタクを使って、自己の存在の形を一気に示す事ができるとは。

 以前にたような言葉で記憶に残っているものがある。「郷ひろみを生涯貫くという、郷ひろみ」当人が演じているのであって、自分は他に居て、生身の郷ひろみでは無いと言いきるところがおもしろい。改めて考えればさまじい生き様である。実は誰でもそういう状態に生きているともいえる。

 この辺りに、曹洞禅というものは在るのかも知れないと考える。自分を演じるのではなく、自分として生きると言うことが大切なのだ。演じている間は安心立命は無いと言うことだ。阿字(あじ)の子があじのふるさと立ち出でてまた立ち返るあじのふるさと。

 人間とは自分のことなのだ。その自覚を問うのが、禅なのだと思う。しかし自分になると言うことほど、易しそうで難しいことはない。生きているというのは人まねで普通のことだ。子供が大人の真似をして、一日生きて、大人になってゆく。阿字の子として、無垢の自分として生きているわけではない。そこで改めて、自己本来まで至りたいという想いが湧いてくる。

 生まれて死んでゆくのは、他でもない自分のことだ。うかうかとしてはいられないということになる。自分の存在に気付くことなく、死んでゆくわけにはいかない。自分は自分をやらなければならない。それを生きる目標にしようと言うことになる。

 キムタクも、郷ひろみも、やれないが、笹村出なら出来る。と書いてみても、出来るはずの笹村出がなかなか見つからない。それを探しながら生きようというのが、お寺の標語だ。キムタクも、郷ひろみも、安倍晋三も、私たちの見ている姿は、それぞれの役を生きているのである。

 笹村出の自覚である。これが出来るようで案外に難しい。笹村出のものまねは出来ても、笹村になりきることは出来ても、本来の存在である唯一無二の笹村出を自覚して生きる。と言うことはなかなかのことになる。その自覚をするために禅の修行はあるのではないだろうか。

 絵を描くと言うことは笹村出の絵を描くと言うことになる。当たり前すぎるが、それがまことに困難なことなのだ。良寛の書がおもしろいというのは良寛という人間がおもしろいからなのだ。その面白さは生身の人間が生きているという面白さだ。道元禅師にはそういう感じは受けない。

 その良寛の人間が書を通して見えるからおもしろいのだ。その人間が現われていない物は絵のように見えるけれど、絵ではない。どれほど評判の良い絵であれ、他人の真似をしている絵であれば、その人本来の絵を描いたことにはならない。絵を描くということを、自分に向かう行にしてゆかなければならないと思っている。

 ゴッホの絵はゴッホの絵である。当たり前の事だがマチスの絵はマチスである。上手ではないが、両者それぞれにすごい絵を残した。そこにゴッホがいる。マチス以上のマチスがいる。二人とも会ったこともない人だが、二人の人間が生に感じられている。本物の絵のすごさである。

 その人間の絵を描く。簡単なようで出来ない。ああこの人の絵だなと思うような絵を最近見たことすらない。ただ描いたところで、どこにも笹村出はいない。絵空事ならいくらでもかける。人まねならいくらでも出来る。しかし、なるほどまごうことなく笹村出の絵だというわけにはいかない。

 原因はいくつか考えられる。自己の自覚に至っていないから、描くべき物がない。つまらない人間なので絵もつまらないと言うこともありうる。絵を描く技術が不足している。色々あるに違いないが、じわじわと少しでも良い方向に前進してゆくつもりだ。まだ時間はある。

 私の線だと言える線がすでに引けない。大体の線がよさげな人まねの線になる。手がすでに色々学びすぎている。私の色がおけない。私の絵にならない。この歯がゆさが常にある。先日日動画廊で梅原龍三郎の絵を見て、ああこの人は自分の線で、自分の色で絵を描いているというすごさを改めて思った。それでも若い頃はルノアール風を真似ていたのだからと思う。

 近づいたと思って顔を上げると、まだまだ道は遠い。そこそこの自分らしき物にしがみついて居たら、このまま終わるのだと深刻に自覚しなければならない。それで良しというところが終わりなのだ。褒められたら終わりなのだ。自己否定して進む以外にない。
 それが絵を描く。私絵画を描くと言うことなのだ。絵は眼前の事物になるから有り難い。自分という未熟が絵として示されるから有り難い。道元禅師のように只管打坐で自分に至るというようなことは、凡人には難しすぎることだ。当人以外には何も分からない世界だ。それでいいとしているわけだ。

 背伸びしても仕方がない。絵を描くことで自分に至れれば、それはそれで良いと思っている。良寛は様々な字を書いている。一つの描き方にこだわるところがない。随分勉強していると思われる。そうした技術の修練の上に良寛の字に至った。その良寛の字は一見何でも無い姿をしているところが恐ろしい。

 能力の如何を問う必要は無い。私は私であれば良いだけのことだ。他と比較するようなことではない。出来ないはずもない。人と競べると言うことには何の意味も無い。そんなことは他人の問題である。必ず自分に到達できると信じて日々を楽観する。

 

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