「道元禅師」立松和平著を読む

   



   2回目のひこばえが順調に生育している。一回目のひこばえは穂を付けるところまで言ったのだが、台風で収穫できなかった。そこで収穫するより1週前の早刈りをすることで、幼保が形成されないという山岡先生に従い、早刈りをしてみた。2週間経過した段階では確かに幼保は現状形成されていない。

 立松和平の書いた「道元禅師」を読ませてもらった。永平寺の発行している「傘松」(さんしょう)という機関誌に掲載された文章をまとめたものである。かなりの大著である。余り読みやすい本ではなかった。特に前半部分の文体が肌に合わなかった。泉鏡花賞を受賞した理由がこの文体なのだろうかとおもった。

 立松和平の道元禅師は私が子供の頃から作り上げていた、道元禅師像とはかなり異なるものであった。異説もあるのだが、上級貴族の人間関係を断ち切らないまま生涯を通すという所が違う。生涯の全体の流れを考える上での権力との関係がどこか不自然で成らない。道元の時代の修行道場はもう少し小さな物と考えた方が良いのではないだろうか。

 弟子の数も少し多すぎると思う。もっと小さな修行集団だったと考えた方が私には道元らしいと思う。また、肝心の正法眼蔵の読解が立松和平にはされていない。私は理解できていないので、この本に期待したところがあったのだが、この点でも期待外れであった。
 
 私が寺院で育ち、曹洞宗の学校に通い、僧侶になり、見聞きして作り上げた道元という人とはかなり違っていたことになる。その違いが気になり、極めて読みにくい本になってしまった。それでも最後まで読むことは読んだ。正法眼蔵と言う内容の深い大著を、書き上げると言うことにはどれほどの時間を傾けたのだろうかと思う。

 立松氏は道元禅師は繰返し読んでも意味不明である。もし正法眼蔵を理解した上で、この本を書いているのであれば、誰にでも意味が伝わるように書けたはずである。難解なのはかまわないが、正法眼蔵の位置づけが明確でないと、道元禅師のことは書けないことになる。

 何故、道元禅師が修行僧に日常の些末なことまでの行動規範まで書いたのか、この本では触れていないが、そこに騒動宗創立時の道元の心情が出ているように思う。道元禅師が修行道場の運営として、細か水ぎるような規範を示したのだろう。弟子に対して細かく、細かく指導したのだろうと思う。始めて禅の修行道場を作るためには必要なことだったのだろう。

 先進国中国からの帰国者として道元には、日本になかった寺院の生活規範を作ろうとしたのかも知れない。道元禅師はある意味神経症的に細かいことにこだわりのある人と考えている。当時の日本の仏教は、日本化した仏教だったのだろう。特に仏教者の生活の在り方が、道元禅師には耐えがたい物だったのではないだろうか。

 道元禅師が最初に書かれた書物が普勧座禅儀である。座禅のやり方の指導書である。座禅をどのように行うべきかを主にその実際の手引き書というように、具体的に書いている。同様な意味で、禅の修行法を細かく記した部分が正法眼蔵にはかなりある。

 道元は曹洞宗を作り、その禅の修行法を残さなければならないと考えて、永平寺で繰返し説明や指導が必要だったのだろう。実際に54歳で道元が死んでから、曹洞宗では弟子の間で混乱が続く。とくに初期の弟子は達磨宗から出発した人達であった事が影響する。

 達磨宗に関して立松和平は否定的な捉え方である。どちらかというと異端扱いである。しかし、曹洞宗が宗派として成立したのは達磨宗の人達によってである。道元禅師には宗派を作る意図もなかったし、そういう能力のある人ではない。道元禅師には自分とそのまわりの人だけの只管打坐で良かったのだろう。

 道元禅師は宗派を作るなどまったく考えない人だと思う。それでも心が開いていた人だったのではなのだろう。来たる者拒まずの姿勢。それが修行者の姿勢と考えていたに違いない。修行を一人で行う事を危険と考えていたに過ぎない。達磨宗の人との交流は福井にいってできたと考えた方が良いのではないか。

 正法眼蔵は言葉の飛躍が至る所にあり、道元禅師独特の論理性が哲学詩と呼べるように書かれている。そもそも読解することを拒絶しているような性格の文章もある。入り込むのが極めて困難なものだ。私はキリスト教徒が聖書を時に手に取り開いて一文を読むように、アトリエカーには置いてあり、時に開き読むと言うより、文章を眼に入れる。理解は出来ないがすごい文章だとは思う。

 道元禅師の禅の思想は中国の仏教とはまったく異質な物になったのだと思っている。正法眼蔵にあるもの道元であって、仏教といえるものかどうかも分からない。哲学という物に一番近いのだろう。哲学であれば、言葉の既定と言うことが重要になるが、矛盾や飛躍と言えば違うのだろうが、言葉に縛られていない物だ。松岡正剛の書評は正法眼蔵を読む参考になる。

 正法眼蔵の道元の文章の分析の実際については、Wev春秋にある、坐禅とは何か――『正法眼蔵』「坐禅箴」を身読する 藤田一照・宮川敬之のものがとても参考になる。そういう成り立ちなのかと教えられる所ばかりだ。キリスト教には聖書学という大きな学問体系がある。

 曹洞宗でも正法眼蔵学というものが必要なではないだろうか。藤田一照・宮川敬之のお二人の解説は、学問研究といえるものだ。このようにして深く研究分解していただかない限り、最も重要な聖典が読みこなせないという、情けない曹洞宗の一僧侶と言うことになってしまっている。

 立松和平の本のことだった。一番違和感があったのが、道元と許嫁であった邦子という人の話だ。道元は得度をしたから関係は解消されるわけだが、最後まで強い絆があり、寺院を作る際に後ろ盾になってくれる。という書き方である。
 
 邦子という人は後堀河天皇准母、皇后宮。膨大な荘園群を父から譲られ成立した安嘉門院領が道元の活動を支えているという話が作られている。この辺りの筋書きが、まったく納得いかない話になる。天皇家に支えられて、曹洞宗が成立したかのような印象を与えてしまう。

 私の想像してきた道元禅師はそういうことを受け入れられない人だ。鎌倉幕府北条時頼は鎌倉に寺院を作るので、道元に住職になるよう希望するが、道元はそれを断る。それなら何故鎌倉に行ったのだろうかとも思う。この辺りの実際を道元という人間から導き出す必要がある。

 永平寺を福井に作るときの後ろ盾が、北条氏の家臣波多野義重である。その関係から時頼の依頼を断れなかったとなっているが、そういう人ではない。たぶん興味があったのだろうと思う。権力者に興味を抱き鎌倉に半年いたのではないか。

 この辺りがどうも道元禅師という人間が分かりにくいところである。達磨宗との関係も含めて、立松和平の本に於いてもその解明はなされていない。もちろん私にも分からないが、複雑な人間である事は正法眼蔵を読めばある程度は想像できる。

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