宝くじはレジャーなのか、貧乏くじなのか。

   



 良くブログスを読む。文章が無料だからである。ウエッブの文章は無料で無ければならないと思っている。最近有料の文章が増えてきているが、けちくさいことだ。意地でも読まないことにしている。

 そもそも文章を読むのが好き。これは子供の頃からの習慣である。両親は本を買いたいというのであれば、必ず買ってくれた。他のものは頼んでも、滅多に買ってくれることは無かった。本を読むことは、親に喜ばれていると思っていた。

 小学5年生の時に路傍の石を読んで、その感想を家族がそれぞれに語ったことを覚えている。読書感想文の宿題だったような気がする。子供の頃からの習慣で、文章を読むことがすきになった。本を読んでいれば、羽田石垣島間なあっという間である。だから飛行場では良く本を買う。ただ、最近眼が今ひとつで、本よりもパソコンの方が読みやすい。読みやすい状態に調整してあるからだ。

 朝、一通りニュースを読む。今ならコロナばかりが出ていて、安倍事情聴取はどう成ったのだろうというような、ネットサーフィンである。そして、大抵はブログスも読む。新聞社のウエッブページは有料文章が多くて、内容が尻切れで不愉快である。日経の1月一〇本無料はは読んでいる。

 有料で無ければ、読ませないというケチな根性は腹が立つ。無料の社説は読むが、つくづく新聞社の文章力の低下が目立つ。内容はともかく、きちっとした主張が読み取れない場合さえ多々ある。文章がひどいの最近ではただでも読まない。

 その点、ブログスはろくでもない文章もままあるが、中にはなるほどという文章もある。内容のことではなく、文章の出来不出来が気になるのだ。読みやすい文章というだけでは無く、品格のある文章が好みである。井伏鱒二の文章が好きなのだ。

 文章と言うより、文体と言うべきなのだろうか。文体という意味はもう一つ理解はしていない。ニュースの文体というものもあるのだろうが、朝日の天声人語の文体を思い出す。影響を受けたと思う。文体というと絵で言うと筆触というようなものだと想像している。

 語り口であろうか。絵で表現するためには語り口を持たなければならない。何を描くか以前にどういう筆触で表すのかと言うことがある。そうでなければ、描くべきことを的確に語ることが出来ない。そしてそれは無意識なものだ。それが文章では文体なのだろう。文体に乗るだけで気分が良くなる。

 朝日新聞の天声人語は受験に出るといわれていた。50年以上前の話である。今の天声人語より大分堅い。そして内容がある。今の天声人語は有料になってから読んだことがないので、どうなっているのかは知らない。社説からするとお金を払ってまで読みたいとはとうてい思えない。

 ブログスにはアクセスランキングというものがあり、読まれている記事の順位が出ている。おとといの朝は一番二番がともに、宝くじの話であった。宝くじは買ったこともないし、興味も無いのだけれど、この文章は両方とも読んだ。両者とも面白いと思った。意味が良く理解できた。

 方や貧乏くじ論。方やレジャー論。お金を投資して利ざやを稼ぐ人にしてみれば、確かに宝くじは効率の悪い貧乏くじである。一方、博打に興じる人にしてみれば博打そのものが、損得抜きに面白いのだ。両者のすれ違いが並列されていて、それなりに面白い。




 と言って内容に関して言えば、どっちも、どうでもいい。私の場合はいくらかでもお金があるなら、自分に投資する派である。これが一番楽しいし、見返りの可能性も高い。もしダメだったときにも自業自得なのだから、腹も立たない。レジャー性も高いし、日本経済よりは成長しているつもりだ。

 経済というのはどういうものだろうか。資本主義経済というものは確かに人間をお金で計っている。労働力として一日いくらである。不要不急の人というのは無価値の人と言うことになる。原始時代であれば、今日生きると言うことがすべてで、蓄積と言うことが無い。動物の生き方である。

 蓄積を貨幣にして、その貨幣を投資して回す。それだけで利潤を得るという経済が、資本主義なのだろう。不労所得は宗教的倫理では悪事のはずである。子供に勧められるような生き方では無い。少なくとも私が子供の頃はそう言われていた。学校の道徳の時間にもそう教えられた気がする。

 最近教科となった、道德科目では宝くじは奨励されるのか、やはりやるべきではないものとされるのだろうか。たぶんそういうややこしいことは道徳科では避けているのだろう。ではパソコンゲームはどうだろうか。やるべきものなのか、やるべきではないものとされているのだろうか。

 野球選手やサッカー選手になる夢は悪いことで無いのだろうが、それがグランドにはお金が埋まっていると言うことは、奨励されるべき価値観なのだろうか。お金になれば何でも良いというものなのだろうか。藤井聡太少年は将棋に熱中した天才である。しかし、将棋に熱中しすぎるのは良いのか悪いのか。

 藤井二冠は大いにもてはやされているが、ゲームに熱中している子供とどこが違うのだろうか。子供の頃、ベーゴマやメンコに熱中していた。勝てば総取りである。勉強などしない洟垂れ小僧である。悪ジエを磨いて、勝負に熱中した。メンコを油漬け込みや蝋付けにする。ベーゴマはベヤリングから削り出した。今思い出しても、わくわくしてくる。

 碌でもない悪ジエの働く子供だ。将棋にも熱中して、駒ノ湯に行って剛君と空で指したことがある。そういう子供がダメな人間だという認識があった。いつも怒られていたので隠れてやっていた。たぶん、当時の倫理観の影響だろう。私の中には今も勝負事はすべからく悪事であるという倫理が存在する。

 悪事であるが、やれば熱中するに違いない。いや悪事だからこそ熱中させられてしまう。碌でもないことは面白いのだ。考えてみれば、何も生み出さない絵を描くというのもドウショウモナイことに違いない。坊さんが修行と称して山を走り回ったり、座り続けたりしているのも。労働者から見れば、百姓から見れば、余りに馬鹿馬鹿しすぎることになる。

 宗教というものは怪しいもので、修行を善行として称している。私は絵を描くことを修行と思っているが、善行とまでは思わない。絵が人様に具体的に役立つことになって始めて善行になる。修行が成就しない間は悪事とまでは言わないが、碌でもないことであるにちがいない。禅宗では私のようなやり方を乞食禅と呼ぶ。

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