良い絵はどの段階でも良いはずだ。
描きだしたところの写真を並べてみた。これ自体が下描きではなく、作品としての意味を持っているのだろうか。そんなことを考えて並べてみた。どの絵も絵が進むことで消えてしまった絵だ。絵と言えないのかもしれない。
大学の時の美術部の仲間に坪田さんという友人がいた。今は金沢の竪町で現代美術の画廊をやっている。美術部で一番長く一緒に活動をした人だ。美術部で絵を描くと言っても、楽しみで絵を描いていたわけでは無い。金沢城内の旧軍隊の馬小屋に美術部の部室を一緒に作った。シルクスクリーンの版画の共同制作をそこでしていた。毎晩徹夜で楽しかった。
彼が言ったことで忘れていない言葉がある。「良い絵はどの段階でも良いはずだ。」繰り返しこういうことを言っていた。当時私はこの言葉の意味はよく分からなかった。分からなかったけれど忘れたことがないというのも不思議なのだが。
大体坪田さんの言うことは訳が分からないことが多かった。声が小さいので半分位しか聞こえない。だから、中々理解が難しい。彼は私の下宿に何ヶ月も居続けていたこともあった。まあ、私の下宿は私が帰らないので、他の人が寝ていたと言うことも良くあった。
訳の分からない中で、この「良い絵は描き出しの1本の線でもその絵を表しているはずだ」という言葉は記憶に残っている。良い絵にはつまらない下書きのような段階など有るはずがないという考えかたなのだろうか。今聞けば応えてくれるだろうが、面倒くさいことになりそうなので、聞きには行かない。
彼は当時ベンニコルソンのような抽象画を描いていた。絵作りの知識が豊富で技術的には、なかなか器用な人だった。しかし、そういうことと絵とは違うとも自身主張していた。当時から現代美術に興味があり、いろいろ勉強していたようだ。Bゼミの集中講義のような物にも参加していた。私のように風景画をただ描くというような方向には関心もなかっただろう。大体に人の絵に関心は持たない人だった。
坪田さんは石膏デッサンをやっていた。デッサンの最初の1本も美しいはずだと言ってデッサンをしていた。5本だけで石膏デッサンをするなどと不思議なことを言っていた。私は石膏像が美しくもないのに何故そんなことができるのかと言って、石膏デッサンは毛嫌いしていた。描くなら自然である。濡れた桜の幹のほうがはるか面白いと言って描いていた。中国美術の考え方に影響を受けていた。
ところが最近になって、良い絵はどの段階でも間違っているはずがないと思いだした。それで彼の言葉を今更ながらに思い出したのだ。それで制作の過程を写真でとってみている。どこで間違うのか。間違わないのか。分かるかもしれないと思うのだ。そうしてみると初めからどうも間違っているような気になっている。
そのものに迫って行く手段という物がある。これは良くない。漠然と対象を受け止めていない。具体的な意味的な物として、対象を受け止めている。絵画するという目的に合わせて対象を見ている。そういうことが過程を記録することで少し分かった。美しくない心のような物が、制作過程に表われる。
「気合いだぁー!」とか「芸術はばくはつだぁ!」的な何かを超えたような作品の受け止め方とは大分距離がある。計算ずくのような物が最初の絵の段階である。これではダメだ。と思っていたら、坪田さんの言葉を思い出したのだ。これは何かの呪縛か。
良いというのが、計算の間違いのない良いではない。計算を離れた、良いであればどの段階でも、そのものとして良いはずだ。次の段階に行く過程であると言う意識は否定する必要がある。最初の点ひとつ。線一本。そのものとしておくことができるか。ここにかかっている。何かのための準備の線と言うことはないはずである。
下書きとか、当たりの線と言うような意識は絵にはあってはならない話だ。その意味では坪田さんの言っていたことは真実であった。50年も経って気づくこともある。彼にしてみると、良い絵は悪いときはないというのは自分の絵に対して考えていたことなのだろう。だから絵を描くのは止めたのかもしれない。
絵を描くのを止めて現代絵画の画廊を始めた。あらゆる段階で作品と言える物を、現代美術の中で見いだしたのかもしれない。その本当の理由は分からない。絵から離れていない理由も分からない。先日一度尋ねたときには絵の保存法に関して、随分細かくしゃべっていた。そういえば彼は理学部の出身だった。
絵画で使うノリの問題など、さすがに専門家であった。安全なノリの組成に関して語っていた。作家はそういう点でたらめなので後で困るのは画廊だと、何故か怒っていた。
果たして私の描き出しはどうだろうか。そう思って、一息ついたところで写真を撮ってみた。どの絵もはっきりしているのは、この先どうなるかがほぼ分かる。描き出しの絵は重要らしい。少なくとも描き出しがいい調子だと、そのあとが自由になる。
どこにでも進める、自由な描き出しがいい。その先の絵をせまくしない、どうとでも進める描き出しでありたい。色を使うときもあれば、ほぼ一色で描き出すときもある。決めているわけではないが、色に反応が強いときの描き出しは色を多様に使う。形に反応して描き出すと、単色で進めている。
同じ場所を意識して、違うやり方で進めてみたいと思う。そういうことができるかどうかはまだ分からない。いつも描く場所に行くと、あれこれ考えられなくなるので、今思っていることもやれるのかどうか分からないところがある。