太極拳 八段錦と24式

   

与那国馬。石垣では良く飼われている。実にかわいらしい馬である。
 石垣に来てから太極拳を始めた。毎朝やっている。なんとなくやらないでいたのだが、石垣での暮らしの流れとして、朝太極拳で始まるというのはいいかもしれないと思うようになった。
 中国では朝薄ぐらい内から、公園で沢山の人が運動をしている。太極拳もないわけではないが、実に様々な体操である。あちこちでグループになってやっていた。

 太極拳には様々な動作があるようだ。流派によっても少し違うらしい。私が教わっているのは楊名時八段錦・太極拳の形である。楊名時先生いわゆる中国的に大人である。絵を見ていただいたことがあり、そのときに人柄に感銘を受けた。

 八段錦は太極拳を始める、準備運動と考えて置けばいい。と勝手に解釈している。深い呼吸をするための運動である。呼吸を深めるために、動作を行う。呼吸を限界まで絞り出し、吸い込む。呼吸器を十二分に使い身体を活性化する運動ではないか。

 深い安定した呼吸を繰り返すために、8つの動作を行う。それで8つの見事な錦の織物と名付けられている。やってみると呼吸が深くなることが分かる。完成された動きと呼吸法である。とても古くにできたもののようだ。1200年に記録があるらしいが、さらに古くからある運動と考えていいのだろう。

 中国では運動というものと哲学はつながっているのではないか。それで体操が生まれては消えて、今に残り伝わったものではないかと思う。八段錦を毎日行う。これは身体にとってとても良いことだ。そういう身体に実感がある。身体は老化して行く。各確実に衰えて行く。その衰えをできる限り抑える運動ということになる。難しいことではないので、動ける間は朝に一回はやるつもりだ。

 呼吸法は逆腹式である。おなかで息を吸う気持の呼吸。吸うときにはおなかはへこんで行く。おなかで息を吐く、今度はおなかは膨らんで行く感覚である。無意識の中でそうなる。呼吸は意識的なものでは不十分である。呼吸をしていることを忘れている。そしてできる限り大きく深く。
 
 この呼吸は座禅の呼吸法と同じである。ただ、呼吸法は意識がそこに行くのでは良くないので、自然に呼吸が身体が治まるまで無理をしないことだろう。とらわれないと言うことが呼吸以上に大切なことになるからだ。

 呼吸は自然であること。ここに意味がある。逆腹式を改めて意識することなく,自然な呼吸として八段錦の動きの中で行う。それができるようになると、深い深い呼吸になって呼吸で動いて行く早さに落ち着く。

 精一杯ゆっくりと動き呼吸の限界まで持って行く。動きにはほぼ一回おきに軽い呼吸と深い呼吸が繰り返されて行く。深い呼吸の最後に呼吸を止める場面がある。限界まで吸った呼吸を三秒ほど止める。勝手に解釈してそうしている。

 八段錦の各運動を三回ずつ繰り返し行う事もあるらしい。引き続き24式を行う場合は、一回か二回を一通りやれば良いようだ。自分の身体にどれが多く必要か分かれば、それだけを三回にして後は一回でもかまわない気がする。

 正しい呼吸になると言うことはすべてが整うと言うことである。身体の中の流れが、安定する。酸素が充分に行き渡ることにより、脳も活性化する。これはぼけ防止になるのではないか。脳髄が、透明になると言うことが、脳に勢いが生まれるという感覚がある。

 この辺はそんな気がするのであって、正しいかどうかは私がいつまでぼけないかで分かる。100歳まで死なないで、ぼけていなければ、八段錦のおかげである。

 24式太極拳は戦後中国政府が太極拳を国民運動として広げて行く際に、太極拳を24の形に整理したものということだ。拳とついているが拳法と言うよりも、国民健康体操と考えた方が良い。全体に流れがあり、舞踊にも近い動きのような気がする。

 この動きも呼吸が重要らしいが、24式についてはまだ私には分からない部分が多い。ひとつ分かったことは視覚的なことである。目に映っているのだが、視覚的に見ていると言うことではない。目に映るものが流れているのだが、見ているわけではない。

 こういう状態は座禅においては、極めて難しいのだが、太極拳の動きが伴うことで、座禅よりは妄想が起きないようだ。まだ太極拳の経験が浅いので、それ以上のことは分からない。1年ほど経過したら、太極拳がどんなものか報告したい。

 毛沢東政権が24式太極拳を制定する前から、中国では様々な健康体操が行われていた。その運動養生法には流派もあり、武術につながるものも多い。その中から健康法として、整理されたものが24式で、良く研究されている。

 24式も呼吸が重視されている。動きに合わせて呼吸を併せて行く。この場合どこで吸って、どこで吐いてと言うようなことは,動きに従って自ずと決まってくる。こきゅうに意識を止めない方がいい。

 太極拳は動く禅ともいわれる。座禅は意識は止まらないことがいい。意識が流れて行く。無意識、無念無想と言うことが言われるが、ぼうっとしているのではなく、冴え渡っていながら、意識が透明で自由に止まらないことである。

 止まり考えに落ちこむのではなく、流れていって淀むことがない。頭の中の意識が透明な流れで洗われている。座禅においても、長い繰り返しが必要なように、24式でも繰り返して行くことで、意識の自由に至れるのかもしれない。まだ動きが覚えきれないレベルで到底そんなことはあり得ない。

 動きに意識を集中させて行く。身体の中の流れに意識を通わせて行く。経絡というものらしい。この流れはそもそも自覚できるものではない。それを意識的に目覚め刺す。つまり私にとっては内観法である。自分の意識を身体の様々な部分に及ばすことで、流れを起こす。
 

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