石垣島水彩生活。
いま描いている絵 描きかけはいつもこんな具合にアトリエに並べてある。
いつもの場所3か所を描いて居る。石垣にいるときはほぼ毎日描いて居る。大体は午前中が絵を描く時間。午後まで続けることもあるが、たいていは午前中車で家に帰る。時には次の場所に午後は行くこともある。同じ場所で一日描いて居るということはない。意欲が持続できないようだ。車に乗って描きに行く。いつもの場所で車からは降りることもなくそのままそ描いて居る。その日行く場所は大体前日決まっている。なんとなく見ているうちに、あの絵を持っていって描きたいということになる。あまりアトリエで描くことはない。今描いている絵。いつもの名蔵湾である。少し高い位置に場所を代えて描いている。今回は立て構図で。田んぼに水が入り田植えが進んでいる。この時期が一番田んぼの力のような湧き上がる。なんともいいので、田んぼを中央に置いている。田んぼのすばらしさを表すことができるのであれば、もうそれだけでいいのだが。これがなかなかできない。見えているようにやるということがいかに難しいことか。どうしようもない絵ばかり描いて居る。
と言いながらも、実は絵を描くのが楽になっている。どうしようもなくてもそれはそれで、というような気持ちでいる。特別なにかが変わったわけではないが、前より描くのが気ままになったというか、間違えてもそれはそれでいいというような気持ちで描けるようになった。絵はやっとこさっと変化を始めている。変わりたいと思ってもよほどでなければ買われるものでもない。見ているものを移すということの先にある何か。見ているものと絵の間にある架け橋。それは心象表現ということに行くのではなく。何を見ているのかという表現。絵を作るのではなく。見ているものの本質を見抜くように見る。私という人間が見ているものに至る。それは見ているものから、有象無象を取り去ること。昔はそれを妄想を抱くと考えていたが、妄想ではなく、生の人間がいらないものを見ないということ。面倒くさく書けばそういうことになるが、前より楽になった。たぶん少し技術が上がったということがある。水彩はここまでやってきても前より技術が進むということがある。
どうやってもどうにでもなるという、技術が確立しないと自由に描けないのが水彩画である。例えば白いところを残して描くということがあるが、あとから白に戻すことができれば、白を残すというような余計なことを考えないでもよくなる。白の表現の技術が向上した。そういうことばかりで出来るている技法という気がする。絵の技法を学ぶということは、そもそもなかったから、だから今更こういうことになるのかもしれない。誰でも知っている、誰でもやっている書き方ということを何十年もやっていて始めてやる。ともかくやったことを最後までそのままに進めている。おかしかったり、失敗ということもある。しかしそれもやったことだから、生かして進めることにしている。だから間違うという恐れがなくなった。すべてそれもよいという気分で描いている。このやり方がいつまで続くかもわからない。絵が変わってきたことは確かなようだ。
水が白く光る。この形や、広がり、動きを描いている。別段水を描きたいということではない。光っている形が全体に及ぼしているものに惹かれている。光っているために周囲とは別の区画を作る。特に田んぼであれば、様々な矩形を描く。あぜ道の作り出す形の組み合わせ。人が作り出した抽象的な構成。その全体の空間の動きを描いている。多分あの光る空間が人が作り出した形。自然というものに人間がかかわる痕跡。自然にかかわることで変化するもの。人が変化を加えることで、動きが生まれた場所。じぶんがあその田んぼに入り田植えをしている感覚を忘れられない。どこか怖い気分がある。田んぼに入るときにはいつも緊張感がある。あの感触と陶酔感。そうするとまだまだ余計なものがあるのかもしれない。衰退なのか、前進なのか、問題からそれている不安もある。それでも何かが少しづつ変化している。