能力主義と身分制度

   

封建時代は身分の固定化された社会だ。個人の意思に基づく自由な生き方が制限されていた。職業の選択に制限があった。この固定化された封建社会の身分制度では国際競争力が不足したわけだ。明治になり帝国主義日本が登場する。競争には能力主義が必要となる。力の強い国が、弱い国を支配し従えることになる。こうした競争が始まれば、当然弱い国でも身分制度に固執している訳には行かなくなる。能力が高ければ登用して国力を高めようとする。明治政府は教育を重視し、能力主義によって人材を集める。能力主義が、職業選択の自由に繋がる。ところがここでの自由は、当然能力があればという事になる。それではその能力はどこで確認されたかと言えば、学歴が中心であった。学歴ではかれる能力が、国家や企業の競争力強化にとっては都合の良い尺度だったのだろう。末は博士か大臣かという形で、秀才の子供は無料で大学へ進んだ。企業の力量が国力を反映する。明治帝国日本では国営企業というものが作られてゆく。

文明開化で身分制度が無くなって自由になったように見えた社会が、実は能力による階層化というものに変わったという事だ。学歴に象徴される能力とはどういうものであろうか。論理的思考能力が高い。継続した努力が出来る。記憶能力が高い。こうした能力は学歴にかなり反映することになる。これは企業的競争に必要な能力である。能力というものは、それだけでは測れないはずである。昔のお百姓が普通に生きるために必要だった能力というものが、無意味化した。朝日を見て感動し、頭を下げるというような人間らしい能力というものは軽視されるようになった。当たり前に生きることを感謝して、日々平凡に生きることを深く味わえる能力。平等性を重視する民主主義社会を標榜しながら、学歴に象徴されるような能力による区分けが、新たに容認された訳だ。学歴に象徴される能力は努力をすれば、一定範囲で可能な能力であるとされた。ここで落ちこぼれる者は努力不足として、仕方がないものとされた。

日本が明治時代に行った能力主義は、国の為という、あるいはお家の為という封建制度を前提にしたものだった。能力が高いからと言って私腹を肥やすようなことは、倫理的に許されないという能力主義である。昭和の経団連会長のイワシの土光さんが評価された姿である。能力があるものは倫理的にも優れている。君子像である。こうした封建時代の倫理観が、能力主義にも結びついていた。ところが現代社会では、アメリカにはトランプ主義が登場した。倫理など、全く関係ない露悪的ともいえる、強欲な姿だ。能力が高ければ、倫理を軽視して、法の網をくぐり、何をやろうとかまわないという事である。ゴーンさんが好例である。企業がタックスヘイブンを利用して脱税する姿。戦後の日本はアメリカの良心的な側面を、つまり倫理的ともいえる正義主義を受け入れた。アメリカの戦う理由は正義を守るためだ。だから日本も、同盟国として協力するという論理構成である。これが全部嘘だったという事が、トランプによって露悪的に表明された。アメリカは正義のために行動するのではなく、アメリカの利益の為に行動しているという宣言である。

能力は平等ではない。それは学歴においても同様なことだ。努力の余地もあるが、すでに生来の能力差前提での競争になっている。教育の無償化が国際競争力強化の為では、教育の本来の目的が人間の完成とするなら、本末転倒である。国際競争力社会では新たな能力選別法を必要としている。果たして、人間はこうした選別に耐えられるのだろうか。また耐えることが人間らしい社会を失う事にならないか。農家に対しても、6次産業化が必要という事が言われる。最高の農産物を作る能力だけではだめだ。国際競争力のある農産物を作れ。それが出来ない農家は努力が足りないという事になる。こうした能力は果たして努力の問題であろうか。こんな能力競争が幸せな社会と言えるのだろうか。みんなが幸せになるためには、能力競争というものを乗り越えなければならないところまで来ている。能力のあるものは能力の足りない者の補いをする。それを互いの幸せとする社会。そうした社会が良い社会であるという事は、誰しも知っている。人間は自分の為よりも人の為の方が力が出る。人様のお役に立てることが、自分の幸せである。私はそういう人間の能力を信じている。悪貨を良貨で駆逐しようではないか。

 

 

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