村づくり農林水産大臣賞の受賞

   

舟原ため池の改修工事中。魅力がぐんと上がってきた。左奥に見えるのが、山の仲間たちが作ってくれたベンチ。手前に小さな広場が出来た。ここに看板などを設置する。子供たちが久野の昔を勉強できる看板が良い。ひろばの淵にできれば、お茶を一列植えたい。昔ため池の周りにはお茶が植えられていたそうだ。

美しい久野里地里山協議会の活動が、村づくり活動で農林水産大臣賞を貰う事になった。私のかかわる活動がそうした賞を頂く事になるとは、びっくりポン。段ボールコンポストの活動も何か賞をもらったようだが、私が辞めてからのことだった。行政とかかわるとどこかで腹が立ち、楽しくなくなってしまう。楽しくないことは続けてはいけないと考えているので、辞めてしまう。ところが里地里山の活動は辞めないできた。行政には腹が立ち何度か辞めようかと思ったのだが、久野の人たちにはお世話になってばかりである。恩返しも出来ないでいる。ここで辞めれば、人間として失格であると考えて踏ん張って続けてきた。お世話になり、小田原で養鶏をやれたのに石垣に行くことにした。とても申し訳のない気持ちがある。骨を埋める覚悟とは行かなかった。皆さんになんて奴だと思われていることだろう。13日には溜池の整備が行われた。15人が参加した。農の会のメンバーも7名が参加した。ありがたいことだ。以前からの課題が一気に解決した。

 青いユンボのある当たりの石垣に大きなさわらの木が生えていた。台風が来て石垣もろとも倒れそうで心配だった。石垣が崩れれば大変なことになる。それで大木を片付けた。その場所には排水路があり、橋が必要だった。そして、切った丸太で橋を作った。この橋は見事である。ユンボが載ってもびくともしなかった。

あしがら農の会は団体会員としてこの会に所属している。欠ノ上田んぼの一部は、里地里山協議会の田んぼである。管理を担当している立場である。管理の補助金もいただいている。この田んぼは少しでも長く維持した。この田んぼは通りから良く見える。美しい久野にふさわしい、美しい田んぼを作りたいと思っている。この冬は畔には白クローバー、田んぼの中は赤クローバーを蒔いた。両方が花を咲かせてくれれば白く縁取りされた、赤い田んぼが出来るとかもしれない。庭というものが家にはあるように、里地里山は集落全体の庭だ。日本人は自分の周りの耕作地すべてを美しいものにしたいと気持ちを詰め込んだ。そこにはご先祖様に見守られて生きるという、日々の暮らしがある。ハザガケも続けたい。ハザガケは季節の風物詩として欠かせない。実りの秋の喜びがあふれる絵柄だ。こうした田んぼは日本中であと10年続くのかどうか。田んぼが無くなっても日本人は大丈夫なのだろうか。

 今年の秋の欠ノ上田んぼのハザガケ風景。この風景が美しいと思う。この景観がいつまでも続くように祈っている。美しい久野よ永遠に。

舟原ため池の管理も軌道に載せるのは私の役割かと思っている。田んぼが無くなった時に、農業遺構として久野の昔の暮らしに思いをはせる縁になる。13日には溜池の整備の活動がある。忙しい方々が、集まって作業をしてくれる。この点では私は申し訳けないことをしている。余計な仕事を増やしたことだろう。せめて大した役には立たないが、動ける間は管理に来るつもりだ。田んぼとため池は石垣から来てやるつもりでいる。というかやりたいという気持ちが強い。田んぼの作業で考えると、田植え前後の5月を中心にした、1か月。稲刈り前後の10月を中心にした、1か月。ここは小田原で暮らすことにすれば何とかなる。後は、草刈り、草取りに来ればよいと考えている。田んぼに併せて、溜池の管理もすればいいだろう。秋の稲刈りシーズンには水彩人展で東京に来ることになるから、都合がちょうどよいかもしれない。その他水彩人の小品展は、巡回展、絵を語る会などでも来るから、これに併せて、草取りぐらいはできるだろう。

 この手前の田んぼが里地里山協議会の田んぼである。何とか維持をしなければならない。この田んぼは私を久野に誘ってくれた、小林さんの田んぼである。小林さんは亡くなられてしまったが、小林さんの期待に応えるためにもせめて、この田んぼは続けたい。農林水産大臣賞を頂いた「村づくりの活動」の下になったのは、産業廃棄物の焼却場への反対運動である。反対運動は成功して、焼却場は退去した。しかし、退去はしたとしても地域が弱まれば、第2第3の地域をひっくり返すような、手ごわい相手が登場する。地域におかしなものが入り込まないように、地域の地場の力を高めて行かなければならないという気持ちが、美しい久野の里地里山協議会になった。今の会長の田中さんは、反対運動の時の代表でもある。地域力のスーパーマンである。新規就農の人たちにも、大いに力になってくれている。美しい久野は大丈夫であろう。

 

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