石垣、小田原2地域居住
やっとアトリエのものの配置が決まった。石垣の暮らしが始まった。楽しみにしていたが朝の散歩。石垣の街の中を歩きたい。昨日歩こうと思ったら、雨になり歩けなかった。今日は明るくなったら出かける。散歩という事はしたことがない。それだけの余裕がなかった。畑と田んぼの見回りである。これが日課だった。意味のことをするという事が、できない性格でもある。今度は石垣の街を散歩する。海まで歩いてゆき、戻ってくる。できれば毎朝の習慣にしたい。そう思って出かけようとしたら、突如である。石垣らしい激しい雨が降り始めた。今日はもう小田原に戻らなければならないが。散歩にだけは出かけようと思う。小田原の方でやりたいことが山済みで、すぐに戻る。また12月には石垣に戻り、石垣の暮れと正月という予定である。冬の間は暖かい石垣が良いに決まっている。小田原に戻りやることは「家庭イネ作り」の本の原稿をまとめるつもりだ。1か月ぐらいあるので、これに集中する。その間に、自給祭があり、名古屋での水彩人展がある。年賀状を書く。妙高岳を描きに行きたいなどと、やりたいことが次々とある。まず、一人で暮らす小田原はどうなるか。忙しすぎるのは良くないな。
小田原の家は絵を描くように配置変えを終えた。そこで、心機一転で年賀状を書いてみようと思っている。石垣への引っ越しの挨拶状でもある。毎年年賀状一枚一枚に絵を描いている。これが面白いので続けている。絵を描く自分の中の何かが開かれることがある。そうかと気づく事が毎年ある。250枚くらいを一気に描くから、見えなかった自分の何かが開発されるような感じになる。自分の中の絵を描く、契機になっている。そういう意味では、みんなで絵を描きに行く写生かとか、絵を語る会も同じように気持ちを切り替える場になっている。2地域居住も場を変えることに意味がある。小田原にいることと、石垣にいることが、絵を描くうえでよいことになってくれればとおもう。自分を超えるためには何かを変えなければだめだ。それが石垣なのだろう。
猫はあちこち探検しているが、まだキャットウオークには上らない。外に世界があることに興味も持たない。餌もちょっとしか食べない。石垣を探検して歩いてはいるが、まだキャットウオークには上っていない感じだ。肩の力が抜けていないのだろう。石垣のキャットウオークにのぼり、石垣が自由に自分の眼で見れるようになりたい。ゴッホはオランダから、都会のパリに出る。そして光あふれるアルルへ、アルルの光を日本のように明るいと書いている。石垣の光は日本で一番明るい。星空はまばゆい。五日、自分の眼で当たり前に自然に石垣を見たい。石垣の当たり前の絵を描きたい。それがどんな絵のかを、見てみたいのは自分自身である。
一村が描いた奄美は観光イラスト画だ。野心が捨てきれていない。あれは嫌だ。ああいうものを評価する世間が悪い。異国情緒等石垣もほとんど小田原と変わりはない。この変わりのないところこそ、意味がある。普遍だ。特異な場所を、得意になって描くのはいやらしい。よくある日本人のパリ風景である。私絵画は何を描くのかといえば、自分の眼で見たものだ。期待される絵画から自分の絵を逆算するのが一番よくない。つまらなくて、かまわない覚悟はしておきたい。さてどんな年賀状になるか興味のある方には送りますので、メールをください。